来るべきアレフバー の世界

ペルシア文学の余白=世界文学の中心

ブラッド・ピットの腕に彫られたルーミー詩の入れ墨

元記事へのリンク(写真あり):EXPLAINED: Brad Pitt’s Rumi-inspired tattoo might be lost in translation - CINEMA-TV.

ブラピの右腕に彫られた入れ墨が、イラントルコが誇る神秘主義詩人、モウラーナー・ルーミーの詩だということで話題になっています。

といってもペルシア語ではなく、コールマン・バークスの翻訳でベストセラーにもなった『エッセンシャル・ルーミーEssential Rumi』からとられた、

There exists a field, beyond all notions of right and wrong. I will meet you there.

という一節のようです。直訳すると、「正しさと誤りの観念を超えたところに野原がある。そこで君と会うだろう。」という感じでしょうか。

Hürriyet紙の元記事は素人が書いているらしく、詩の意味も原文の出典も分からない(調べられない)としながら、Essential Rumiの訳が不正確だというAmazonのレビューなんぞを引き合いに出してお茶を濁しています。

そもそもバークスの訳は超訳とでも呼ぶべきもので、ルーミーの詩を英語に訳したものを、さらに英語の詩人が詩に訳し直した、という触れ込みで話題になったもので、だからこそ多くのアメリカ人に読まれたのです。そのあたりの事情は、フィッツジェラルド訳の『ルバーイーヤート』に通じるものがありますね。正確に訳すより面白く訳せば売れる、みたいな。・・・あれ?なんか日本でもこんなこと言ってる人がいたようなwww

f:id:iranolog:20140803102654j:plain
入れ墨部分のアップ。http://webzine.mehrnews.com/FullStory/News/?NewsId=12623より

(Hürriyet紙の記事が引用している英文は、“Out beyond ideas of wrongdoing and rightdoing, there is a field. I’ll meet you there”となっており、これはWikiquoteにも載っているやつですが、写真を見ると、ブラピの入れ墨のほうは上に引いた形が正しいようです。)

۞

さて、イランのメディアでは、この詩は以下のようにペルシア語訳され、それがコピペされてかなり多くのニュース記事が出回っています。

آنجا دشتی است، فراتر از همه تصورات راست و چپ. تو را آنجا خواهم دید

(直訳:そこに原っぱがある、右と左のいかなる想像よりも彼方に。私はそこであなたを見るだろう。)

英語だとright and wrongの部分が、ペルシア語では「右と左」になっています。「右rast」には「正しい」という意味もあります。それに対して「左chap」は「まっすぐでない」「不安定な」といったニュアンスはありますが、wrong の意味に読ませるのは、個人的にはちょっと厳しいのでは、と思います・・・ペルシア語ブロガーたちは英語をちゃんと見ていないのかも知れませんね。

そこで気になるのが、元の原文はどうだったのかということです。

ググってみると、この点について触れているペルシア語の記事が沢山見つかります(それにしてもコピペ記事が多すぎる!!←お前もだよ!)。

恐らく元ネタは、「キャッザーズィーがブラッド・ピットの入れ墨の秘密を解いた」という、メフル通信の記事です。(ペルシア語記事へのリンク

記事によれば、イランの文学者であるキャッザーズィー氏にこの詩の出典について尋ねたところ、ルーミーの四行詩158番以外にそれらしいものはなさそうだ、ということです。因みに158番というのはフォルーザーンファル教授の校訂したルーミーの『シャムス・タブリーズィー詩集』における番号です。有名なマスナヴィー詩のほうじゃないんですね。

その原文とは、

از کفر و ز اسلام برون صحرائیست

ما را به میان آن فضا سودائیست

عارف چو بدان رسید سر را بنهد

نه کفر و نه اسلام و نه آنجا جائیست

 

またまた直訳すると:

「不信仰とイスラームの外に沙漠(荒野)がある

私たちにはそこで取り引きがある

神秘家はそこに至ると、頭を垂れる

不信仰もなく、イスラームもなく、そこには場所もない」

(・・・ちょっと難しいです。間違ってたら申し訳ありません。)

2行目の「取り引き」と訳したsawdā’īは、もしかすると「黒胆汁sawdā’」の派生語と考えることもできそうです。その場合、「情欲」などと訳すと面白いかも知れません。両方の意味に取れるように書いているんだと思います(汗)。いずれにしても、イスラームとか不信仰を超えたところに恋人(=ネ申)との交わりがあるという意味じゃないしょうか。

3行目も良くわからんのですが、「頭を垂れるsar benehad」は、直訳すると「頭を置く」という意味で、屈服するとか眠るとか色々に訳せますが、ずばり言ってこういうのは分からないままのほうが良いんですよ。神秘家が神の前でひれ伏す、という意味なら「イスラーム」ですが、恋人と横になる、というエロい意味をそこに読み込んではいけない、という決まりはないでしょう。不信仰もイスラームもないんですから。そこには。

などと、自説を展開してしまいましたが、確固たる根拠はありません。シャフィーイー=キャドキャニー教授の編集した同書の選集には、この詩は収録されていないようです。収録されていれば、何かヒントになる解説があったかも知れませんが・・・というわけで、私の翻訳はちょっと怪しいです。物足りない方は、levha.netさんの日本語訳をお楽しみ下さい。

۞

しかし、キャッザーズィー氏の言う四行詩は、本当にこの英語の元ネタなのでしょうか?

Hürriyet紙にもあるように、Essential Rumiではこの後の句が、

When the soul lies down in that grass, the world is too full to talk about. Ideas, language, even the phrase each other doesn’t make any sense (直訳すると:魂がその草むらに横たわると、世界は語り尽くせないほどに満たされる。思考も、言語も、決まり文句さえも互いに意味が通じない)

となっているようで、ペルシア語の3~4行目とは明らかに違うものです。四行詩というのは4行でひとまとまりですから(当たり前や!)、2行ずつバラバラに組み合わせたとしたら無茶苦茶じゃないですか。漢詩でそれをやったら日本漢文教育学会に破門されますよ(笑)。

۞

というわけで、この詩が本当にあの詩の訳なのかどうかは、保留ということにしといて、また何か分かったらお知らせします。てゆうか分かってる人はお知らせして下さい。

Copyright © Yasuhiro Tokuhara, All rights reserved.