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ペルシア文学の余白=世界文学の中心

フランクフルト国際図書展2023年の顛末

ドイツで毎年開催されているフランクフルト図書展(Frankfurt Buchmesse)での出来事について、日本では殆ど報道されなかった話題なので文字化しておきたい。
 
フランクフルト図書展は世界最大のブックフェアの一つとされており、世界各国のベンダーが出展する一大イベントである。今年は10月18日から22日の会期で開催されたのだが、周知のとおり、会期直前の10月7日に、ハマスによる攻撃をきっかけとしてイスラエルの戦争が始まった。
 
すると同展はイスラエルへの支持を表明し、急遽、イスラエルの図書に焦点を当てると方針を変更したのである。誤解を恐れずに敢えて言えば、イスラエルを支持するとか言ってしまうことについては、メディア上でハマスの残虐行為だけが際立っていた10月上旬の時点ではあり得る立場だったと思うが、それ以前から世界各国の出展者が準備してきているはずの図書展の方針までも変更してしまうというのはおかしな話だ。実際、東南アジアや中東のイスラーム諸国からの出展者が、抗議して参加を取りやめることになった。
 
この図書展側の方針変更と無関係ではないと思われるのが、同図書展において開催されるはずであったリベラトゥール賞(LiBeraturpreis)の授賞式の延期である。同賞を主催するLitProm協会は、パレスチナ人の女性作家アダニーヤ・シブリーの小説『些末な詳細Minor Detail』が受賞することになっているが、ハマスが開始した戦争によって多くのイスラエル人とパレスチナが苦しんでいることを受け、フランクフルト図書展における受賞を延期し、より適した時期に行うと発表した。シブリーへの授賞自体には変更の可能性はないとのこと。
 
"The LiBeraturpreis 2023 goes to Adania Shibli" https://www.litprom.de/en/best-books/liberaturpreis/the-winner-2023/ 
 
 
後からネット上で見た限りでは、これを報じる日本語メディアは、AFP BBNewsとそれを配信する時事通信のニュースしか見当たらなかった。
「独ブックフェア、イスラエル支持表明 イスラム教国が参加取りやめ」(10/18)
 
 
受賞者に変更がないのに、またシブリーはハマスではないのに、ハマスが戦争を始めたからパレスチナ人作家への授賞式を延期するとはこれまた理不尽な論理である。
 
図書展はリベラトゥール賞の選考には関与していないとされているが、同賞の授賞式の延期に図書展の方針変更が影響していることは明らかである。というのも、フランクフルト図書展の社長兼CEOであるユルゲン・ボースJuergen Boos氏(過去にも非文学的で頓珍漢な国際的対応をしたことで知られる)は、リベラトゥール賞を主催するLitPromの代表でもあるのだ。
受賞予定者が反イスラエル的なパレスチナ人作家でなかったら、リベラトゥール賞の授賞式の延期はあり得なかっただろう。シブリーとハマスを結びつけてしまう考えの背後には、ナチスに迫害されたユダヤ人とイスラエルを同一視する思考がある。それは、つまるところ、自分たちドイツ人がナチスとして見られてしまうことへの強迫観念からくるのではないか。ホロコーストの当事者意識があるがゆえに過剰に反応してしまうのかもしれないが、それにしても授賞式の延期という決断は、やはり頭の悪い二分法的思考のなせる業としか言いようがない。
 
そして、リベラトゥール賞の授賞式と対照的に、フランクフルト図書展自身が主催するドイツ書籍商協会「平和」賞の授賞式は図書展の会期中に開催されたのだが、その受賞者はサルマン・ラシュディーであった。ラシュディーへの授賞がどの時点で決まっていたのかは知らないが、これまた頓珍漢な選考である。ラシュディーが才能ある作家であることは認めるが、彼とその作品が「平和」に対して何らかの貢献をしたのかどうかは疑問だ。こうした点からも、本を商品や政治の道具としてしか見ないフランクフルト図書展主催者の見識の浅さが窺い知れるというものだ。
 
シブリーの受賞作はもともと2017年にアラビア語で発表された『些末な詳細Tafṣīl thānawī』という小説で、2020年にMinor Detailと題した英訳が出版されている。Wikipedia英語版によると、本作のストーリーは2つの部分に分かれており、前半は1949年に実際に起こったイスラエル兵によるアラブ人少女のレイプ事件を題材にしており、後半はこの事件について調べるパレスチナ人女性が主人公の架空の物語りになっている。小説のこのような内容に対し、然るべき方面から猛烈な反対の声が上がったことは容易に想像できる。
 
LitPromの当初の声明(現在は修正された)では、授賞式の延期はシブリー本人と相談の上決定されたとしていたが、実際にはシブリーの同意なしに決定されたという。その背景には、シブリーの作品への授賞に対するドイツメディアの批判や攻撃があった。これに対し、ArabLitという雑誌が自身のウェブサイト上でシブリーを支持する公開書簡を発出した。
 
書簡では、シブリーの弁として、授賞式延期の決定は彼女の同意なしになされたものであり、もし授賞式が図書展期間中に行われれば、こうした残酷で苦痛に満ちた時代における文学の役割について熟考する機会が得られただろうという言葉が紹介されている。
 
この書簡は瞬く間に世界の作家たちの間にシェアされ、最終的に1456人(11/1時点、筆者調べ)の署名が連なった。署名者のなかには、アブドゥルラザク・グルナやオルガ・トカルチュクといったノーベル文学賞受賞者のほか、コルム・ビーン、ヒシャーム・マタル、カーミラ・シャムスィー、ウィリアム・ダルリンプルといった著名な作家らが含まれる。
「アダニーヤ・シブリーの『些細な詳細』パレスチナ人文学の声を支援する公開書簡」(10/16)
An Open Letter in Support of Adania Shibli’s ‘Minor Detail’ and Palestinian Literary Voices
 
つまり、結果的には単に授賞式を延期しただけではあるが、それ以前にドイツのメディアから、授賞自体に対する批判の声が上がっていたのである。こうした批判について、ベルリンPEN(ペンクラブ)は、13日にプレスリリースを発出して反論した。そこには、ベルリンPEN広報担当者エヴァ・メナッセ氏の以下のような言葉が引用されている。
いかなる図書も、報道情勢の変化によってそれ自体が変化したり良くなったり悪くなったり危険になったりすることはありません。図書が受賞に値するか、さもなくば受賞すべきでないかのどちらかです。私の考えでは、数週間をかけてシブリーを選んだ審査員の決定は素晴らしい選択でした。彼女の受賞を取り下げることは、政治的にも文学的にも、根本的な間違いを犯すことになるでしょう。
ドイツPENのプレスリリース「これは些末な事柄(minor detail)ではない。アダニーヤ・シブリーに賞を与えよう!」(10/13)
 
・ガーディアン紙「作家ら:フランクフルト図書展でパレスチナ人の声が封じられた」(10/15)
Palestinian voices ‘shut down’ at Frankfurt Book Fair, say authors
ロサンゼルスタイムズ1000人以上が署名した公開書簡がパレスチナ人作家のためのドイツのイベントのキャンセルを非難」(10/16)
More than 1,000 sign open letter decrying cancellation of German event for Palestinian author
・タイムズ・オブ・イスラエル「フランクフルト図書展、パレスチナ人作家の授賞の延期で怒りを買う」(10/16)
Frankfurt Book Fair hit by furor after postponing prize for Palestinian author
ニューヨーク・タイムズフランクフルト図書展におけるパレスチナ人作家への授賞式がキャンセル」(10/17)
Award Ceremony for Palestinian Author at Frankfurt Book Fair Is Canceled
 
さて、ここまでの騒ぎを巻き起こす『些末な詳細』という作品はどのような内容なのかが気になるところである。同作品に批判的な見解の中には、イスラエル人を総じて悪く描いているというものもある。いずれにしても、文学は「何を」描くかではなく「いかに」描くかの芸術である。要約やあらすじを読んでも作品を読んだことにはならないから、自分で読み、自分の頭で考えるしかないのである。アラビア語原典からの邦訳を望む。

 

 

 

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