来るべきアレフバー の世界

イラン×文学×図書館=

ダグラス・マレー『西洋の自死:移民・アイデンティティ・イスラム』

昨年12月に電車の中で読んだ本。

 

 

原書は2017年刊行。日本語版は2018年12月で、中野剛志氏による解説と、現著者によるペーパーバック版のあとがき(2018年1月26日付)の和訳も収録されている。索引はない。

 

普段、この手の、書店のビジネスマン向けの書棚のあたりに平積みされていそうな本には食指が動かないのだが、サブタイトルに「イスラム」の語が入っており、目次を見ると『悪魔の詩』事件に関する記述があり(第7章)、ウェルベックの小説についても触れられている(第16章)ので、どんなことを書いているのかと興味を持って読んでみた。 

 

結論からいうと、知的な意味で面白いところは一つもなかった。

 

簡単に言えば、この本はヨーロッパに大量に移入する移民によってヨーロッパの優れた文化が消滅の危機に面しているとして、ドイツに代表される移民に寛容な政策を批判するものである。それは別に良いのだが、著者はその論拠として、移民、特にイスラーム教徒による犯罪の増加や、移民の増加によるヨーロッパのアイデンティティの危機、イスラームがいかにヨーロッパにそぐわないかといった、感情的な、バイアスに満ちた事例を積み重ねるだけなので、当然ながら建設的な主張を導き出すことができない。

 

不思議なのは、難民や移民——著者はしばしば、恐らくは意図的に、様々な背景を持つ難民や移民をひと絡げに論じる——を大量発生させている原因であるところの、中東やアフリカで起きている事態には検証を加えようとしないことだ。下手にこれらの問題に切り込めば、根本的な原因はイギリスが外国に対して行ってきた帝国的な振る舞いにあると言われかねないことを、著者は分かっているのだろう。

 

つまり、この本は、移民受け入れに寛容な西欧諸国の政策を見直させるために、様々な事例を挙げて危機感を煽るものであって、難民問題の解決策を考えるとか、そういう探究心から書かれたものではない。

  

移民問題、難民問題は、日本も含めた世界の国々で取り組むべき大きな問題であり、一度に大量の難民を受け入れれば大きな摩擦が起こるであろうことは容易に想像がつく。難民を減らすためには、ただ国境を閉ざすことではなく、各国がキャパシティに応じて分担して少しずつ難民(自発的な移民とは区別される)を受け入れることと、大量難民の発生する原因となっている紛争や災害や飢餓を取り除くための援助が必要ではないか。

 

ただこれだけのことを否定するために、500頁もの紙幅を割いてイスラーム恐怖を煽る必要があるのだろうか?

 

欧米の書評では、本書を「上品ぶった外国人恐怖症」と評しているものもある。

www.theguardian.com

 

本書には、移民問題や難民問題とは別の次元で、この著者が「優れたヨーロッパ」と「それ以外」という二分法で物事を考え、そこに人種的偏見を落とし込んでいることがわかる表現が散見される。

 

ユダヤキリスト教の伝統、古代ギリシャ古代ローマ啓蒙思想の発見といった支脈から形成された文化は、これまで何物にも揺らぐことはなかった」(p. 14)

歴史上で最も偉大で洗練された文明であろうとも、それに値しない人々の手で一掃されうる」(p. 15)

 

「現在の思潮は、ジェノヴァ人とフィレンツェ人がイタリア人として同化したように、エリトリアアフガニスタンの人々も、来たるべき歳月のどこかの時点で欧州に同化するというものであるように思える。エリトリアアフガニスタン出身の人々は肌の色も違うし、人種的なルーツも遠く離れているかもしれない。しかし欧州は欧州であり続け、その住人はヴォルテールや聖パウロ、ダンテ、ゲーテ、バッハの精神に同化し続けるだろうと。」(p. 17)

 

ここで肌の色や人種に触れることに何の意味があるのか?この後、p.19で著者は、欧州人のアイデンティティを考える上で、人種に関わるものではないということを一応認め、それならば欧州人のアイデンティティは価値観に関わるものでなければならないとしているが、それならば上のようなことは初めから書くべきではない。結局本音では人種差別的な見方に支配されていることが明らかだ。

 

そして、欧州人のアイデンティティを価値観に求めようが、人種概念に求めようが、そこから、終わりのない議論が繰り返されるであろうことは容易に想像がつくだろう。国籍以外に欧州人のアイデンティティなど規定することはできないから、神学論争に陥るほかない。それとも、この本はイスラーム教徒が増えるのは喜ばしくないが、仮に何らかの戦争や危機的状況によってウクライナイスラエルから大量の難民が西欧に押し寄せたら、喜んで受け入れるのだろうか?そこでもまた文化や宗教・宗派の違いを盾に、同じ論法を展開するのではないだろうか?

 

「歴史上で最も偉大で洗練された文明」から生まれる言葉がこの本のように劣化していることこそ「西洋の自死」ではあるまいか。

 

 

 

 

ヤシーン・ハージュ・サーレハ『シリア獄中獄外』

11月に通勤電車で読んだ本です。 

 

シリア獄中獄外

シリア獄中獄外

 

 

今年の6月に出た本です。訳者は岡崎弘樹さん。

 

書誌的な情報に触れておきますと、原著はアラビア語2012年に刊行されたもので、本書は2017年の第2版からの翻訳になります。アラビア語タイトルはبالخلاص! : ١٦ عاماً في السجون السورية 、ALA-LC翻字だとBi-al-khalāṣ yā shabāb! : sittūn ʿām fī al-sujūn al-Sūrīyah になります。

 

著者の説明として、アラビア語第2版では、「第一版の一部誤植を修正したほか、部分的に若干の加筆や脚注を加え、「年月と場所の面持ち」(第一章)の最後に十六年の獄中生活を経てラッカに戻ったときの記憶について書き加えた」(p. 249)とあります。

 

また、訳者解説には、「本書はアラビア語第二版にもとづいているが、フランス語版の序文と追補の論考「忘却の地、シリア」(第十章)についてはフランス語も参照しつつアラビア語原文から日本語に訳している。また日本語版では独自の序文とともに「政治としてのパルミラ——アサド帝国の秘密工場」(第十一章)を追補した。このエッセイはもともとアラビア語第二版に加える予定であったが、紙幅の都合上断念したという。」とあり、日本語版でしか読めない貴重な文章を含んでいます。「日本語版によせて」という著者の序文のほか、原書アラビア語版初版と第二版、フランス語版(2015年)の序文も訳出されています。

 

アラビア語版の版元のウェブサイトに、日本語版の出版について紹介する記事が掲載されています。

"بالخلاص يا شباب" باليابانية

  

*ちょっとカタロガー向けの蛇足になりますが、本書の表題紙裏にはBIL-KAHLAS YA CHABAB!というローマ字タイトルがあります。これはアラビア語の原題をフランス語風に翻字したものですが、フランス語版のタイトルは Récits d'une Syrie oubliée: sortir la mémoire des prisons.となっていて、おそらく、フランス語版のどこかに記述があるのでしょうか。この記事を書いている時点では、フランス語版の目録がWordcatにもBnFにもなくて、BLで見つけることができましたが(目録はこちら)、BIL-KAHLAS YA CHABAB!という表記について記述はなく、アラビア語版はネットで初版のpdfを見ることができましたが、こちらにもこの記述はなし。なので、VT:ORというよりはVT:OHということになるでしょうか。カタロガー以外には意味不明な話ですみません。

 

さて、本書はひとことで言えば監獄をめぐる「政治評論」であり、獄中記というカテゴリーには収まりきらない、獄中と獄外の様々な視点から、監獄(文字通りの監獄と「大きな監獄」としての現在のシリアの政治状況)について考察するエッセーとインタビューから構成されています。 この本が出ている時点で、著者サーレハの弟の一人がISに、また妻が別のイスラーム主義者の集団に拘束されており安否が不明という状況にあり、日本からはなかなか知ることのできない、現在進行形の「監獄」の拡大について知るために大いに参考になる一冊だと思います。

 

日本語版の序文で著者は、欧米のメディアではなくシリアの人々からシリアを知って欲しいと私たちに呼びかけています。また、著名なジャーナリストであるロバート・フィスクについて、アサド政権から得た情報だけを報じ、「シリア人たるわれわれの思想的、政治的な行為主体性を認めず、紛争におけるわれわれの代表・表象する力を否定し、欧米政府との対立という問題にすりかえてアサド政権のために書きつづける」と批判しています。フィスクは奇しくも去る10月末に死去したのを私もチェックしていたので、妙にタイムリーな記述として読みました。

 

 

シリアの状況については、刻一刻と変化するものであって、私のような門外漢は責任あることを言える立場にはありませんが、先日、NHKスペシャル「世界は私たちを忘れた〜追いつめられるシリア難民〜」をご覧になった方も多いかと思います(追記:2020年12月6日午前11時からBS1で放送予定です)。レバノンのシリア難民キャンプの劣悪な環境、誘拐されて臓器をとられてゴミ捨て場に捨てられた子どもや、子どもたちを養うために売春に手を染めてしまう母親、妹を置屋に売り飛ばす兄、レバノン人による暴行など、もう見ているのも辛い現実が描かれています。国外にもシリア人にとっての監獄が拡大していることがわかります。

 

www2.nhk.or.jp

 

ここでは本やテレビ番組を紹介することしかできませんが、図書を通して何かを知るきっかけにはなれるでしょうか・・・

 

 

バーナード・ルイス『中東全史:イスラーム世界の二千年』

2020年10月に出た本です。 

 

 

まず書誌的な情報を整理しておくと、

原書は1995年に刊行されたLewis, Bernard. The Middle East: 2000 Years Of History From The Rise Of Christianity to the Present Day. (初版はLondon: Weidenfeld & Nicolson、のちPheonix, 2000年)で、1997年にアメリカのScribner社から出たものはタイトルが The Middle East: A Brief History of the Last 2,000 Years.で、副題が若干変更になっています。Hollis(ハーヴァード大図書館OPAC)の情報によると、原書の内容構成は以下の通り。

pt. I. Introduction -- pt. II. Antecedents. 1. Before Christianity. 2. Before Islam -- pt. III. The Dawn and Noon of Islam. 3. Origins. 4. The 'Abbasid Caliphate. 5. The Coming of the Steppe Peoples. 6. The Mongol Aftermath. 7. The Gunpowder Empires -- pt. IV. Cross-Sections. 8. The State. 9. The Economy. 10. The Elites. 11. The Commonalty. 12. Religion and Law. 13. Culture -- pt. V. The Challenge of Modernity. 14. Challenge. 15. Change. 16. Response and Reaction. 17. New Ideas. 18. From War to War. 19. From Freedom to Freedom.

http://id.lib.harvard.edu/alma/990059883650203941/catalog

 

日本語訳は、過去に一度『イスラーム世界の二千年:文明の十字路 中東全史』というタイトルで2001年に草思社から刊行されており、本書は、その文庫版ということになります。本文705ページ、年表(1994年まで)、参考文献リスト、索引、図版あり。定価2000円(税抜)。

 

つまり、内容としては1995年のもので、それ以後の新しい情報としては、草思社版に付された、著者ルイスによる前書き「日本の読者へ」(2001年6月付)と、訳者の白須英子氏による「訳者あとがき」、今回新たに付された「文庫版のための訳者あとがき:あれから二十年のイスラーム世界」(2020年8月付)が付加されている。訳者あとがきによると、各章の小見出しは訳者と編集者によるもの。年表には訳者による手が入っており、当然ですが索引も日本語版のために作られたものです。

 

 

さて、バーナード・ルイスといえば、エドワード・サイードとの論争でも知られ、また、『イスラム世界はなぜ没落したか?:西洋近代と中東』(2003年刊。原書 What Went Wrong?: The Clash between Islam and Modernity in the Middle East. は2002年)以降、日本でも米政府の対中東政策に影響力を持つ学者として知られるようになり、先日も、他の地域を専門とする同僚が、「ルイスの『中東全史』が新しく文庫になっていますが、あれはどうなんですか?」、つまり、研究や教育に使えるのかどうか?、と私に訊いてきたように、研究者の間では、有名な学者の本だからといって無批判にそれに依拠するのは、ちょっとためらわれる、というのが本音かも知れません。

 

私なりにこの本を一言で評価するなら、一般向けにしては厚すぎ、専門書としては典拠が示されておらず、そして、なぜ今、文庫という形で再刊されたのかよくわからない、位置付けが微妙な本でしょうか。

 

構成としては、なぜか中東のカフェにいる人々の描写から始まり、西欧文明と、それと異質な中東の伝統に由来する文化の混ざり合った現代の中東の姿、伝統と近代化の葛藤、という前置き(第I部)から本編に入り、古代から現代にいたる中東の歴史を概観して、最後にまた西欧化と伝統の間で葛藤する現代の話に戻ってくる物語になっています。

 

本編の歴史叙述の部分は、第II部から第III部まで(第1章から第7章)の部分で、キリスト教の勃興から17世紀のオスマン帝国の衰退の始まりまでを駆け足で述べていきます。分厚い本ですが、これだけの時代を200頁強で語るので、端折っている感があります。

 

続く第IV部(第8章から第13章)では、「断面」と題して、国家、経済、エリート、庶民、宗教と法、文化といったトピックごとの歴史が語られます。

 

そして第V部となる第14章から最後の第19章まで、再び時間軸に沿った記述になり、主として西洋近代との関係において中東近現代史が綴られています。

 

通勤電車で全部をじっくり読むことはできませんでしたが、ざっと読んだ限りでは、この本は政治的にあからさまに偏向しているとか、ネオコン的な主張丸出し、というわけではありません。

 

ただ、英語圏では一般向けに書かれた本で、日本語版を見る限り、注が一つもありません。だから、細かいところで違和感を抱かせる記述があったとしても、どういう論拠があるのか、彼の偏見なのか間違いなのかは分かりません。

 

これは私の個人的な見方で、これこそ根拠のない主張ですが、ルイスは中東という地域に強い関心を持ち続けていた一方で、若い頃はルイ・マシニョンの影響を受けていたり、その後マルクス主義に接近したりしていて、中東やイスラーム世界をどう理解するかについては、「これだ」という自分の確固たる見方というものをなかなか持ち得なかったのではないか。また書いたものについても批判されることが多く、そのことが、自国の政策に貢献することで自分の研究の存在理由を見出すことにつながったのではないかと、ふと思いました。

日本でも、思想や文学の研究をしていたのに、食っていけないとかいろんな理由で役所や政府系団体に就職するというのはよくあることで、そこである種の「転向」が起こることは不思議ではありません。人間とは不思議なもので、立場が変わると急に思想や文学のことを「机上の空論」「観念論」「役に立たない」などと一蹴するようになり・・・・

 

閑話休題

この手の歴史書を評価する上では、事実関係の正誤はもちろん重要ですが、歴史叙述は単に事実の記述、ではありません。歴史叙述というのは、もともと歴史学科が文学部の中にあるように、文学の一種であることは間違いなく、したがって、いかに書くか、という点に注目しなければなりません。歴史を物語る上でのルイスの理論面での危うさは、実はこの本にも見てとることができます。

 

たとえば、この本は上に述べたように、前近代史、イスラーム世界の断面、近現代史という風に構成されていますが、その記述は、徹頭徹尾「中東」と「西欧」という二分法に基づいて、西側の学者の視点からなされています。中東という、本来多様な文化や宗教を持つ人々を一つのまとまりとして捉えるためには、広域国家であったオスマン帝国の歴史を軸にすればやりやすい。しかし、それは「中東」を語る側の括り方であって、別の括りであったなら、「興隆」「衰退」という筋書きが成り立たないかも知れない。また、シーア派スンナ派スーフィーといった集団についても、相当に類型化しているために、シーア派には常に「過激」とか「異端」という形容詞がつきまとっています。こういう手法は、ルイスが低級な唯物史観から学んだものかも知れませんが。

 

例えばこれが「イスラーム世界」の歴史(奇しくも邦訳にはそのような副題が付けられていますが)であったならば、東南アジアや南アジア、ロシアと中央アジア北アフリカイベリア半島についても触れなければならず、中東での近代との対峙と「衰退」が、これらの地域でも一様に起こったとは言い難く、衰退であれ繁栄であれ、十把一絡げに論じることは不可能でしょう。

 

この本を書いたとき、ルイスの念頭にあったのは、中東であってイスラーム世界ではないと思います。若い人にはピンと来ないかも知れませんが、原書刊行時の文脈について触れておくと、エドワード・サイードオリエンタリズム』(原書1978年)、『文化と帝国主義』(原書1993年)以降であり、9・11ことニューヨークの同時多発テロ事件(2001年)より前の時代であって、イスラーム≒テロというよりは、イラン・イラク戦争アフガニスタン紛争のイメージが強く、ルイスのいう「イスラーム原理主義」組織によるテロが頻発するようになるのは1990年代後半、この本の執筆以降になります。

 

爆破テロの第一報があれば、「犯人はイスラーム主義か」と連想されるほど、今日ではテロリズムイスラームが結びつけられがちですが、日本人にとってそのイメージを強烈に印象付けたのは、1997年のルクソールで、日本人を含む観光客が犠牲となったイスラム集団(ガマーア・イスラーミーヤ。イスラーム団とも。)によるテロでしょう。それ以前のめぼしいテロ事件を見ると、1970年代はほとんどが左翼や民族主義ゲリラによるもので、イスラームイデオロギーに関連するものは、1979年のテヘランにおける米国大使館占拠事件(イスラーム革命派学生によるもの)ぐらいでしょうか。

 

80年代になると、ベイルート米国大使館自爆テロ(1983年)、アフガニスタン・カーブル日本大使館員誘拐事件(1984年6月)、クウェート航空機乗っ取り事件(1988年4月)など、イスラーム過激派によるテロもポツポツと出てきますが、中米や南アジアでの事件のほうが多い。

 

1993年2月にはアルカーイダ系の過激派による米国世界貿易センタービル爆破事件が起こり、次第にイスラームの過激派によるテロが増えていくわけですが、90年代前半はIRAオウム真理教によるテロも起こっています。こういう流れを見れば、テロという手段は、その時と場所において、支配され抑圧されている(と自覚する)集団が選びとる手段であって、その対立関係が形成されていく中で初めて、イスラーム主義やマルクス主義がテロリストのイデオロギーとして先鋭化し、テロを正当化する解釈が強力になっていく。その意味では、「西欧」と「イスラーム」という二分法自体が、対立を煽ることになりかねません。

 

また、この本でのルイスは、アラブ、トルコ、イランといった中東諸国が、西洋文明との衝突と、西欧由来の文化の流入によって、そして「中東人」同士の対立や内紛によって自ら衰退していったかのように書いているが、英米の読者向けだからか、西側の大国の介入については触れられていますが非常にあっさりした記述で、それが中東の混乱の原因とは思わせないようになっています。

 

そんなわけで、私としては、二千年史の情報を詰め込むには良いですが、他にも中東史の新しい本はあるわけですし、方法論的にもちょっと古くなった感のあるこの本をなぜ今、2000円の文庫本として出すのか、その意図についてあれこれ考えてしまう。

 

そして、それに関連して触れておかなければいけないのが、この日本語版において訳者の担っている役割です。ある意味で、ルイスの上をいく偏見が、訳者あとがきには見られます。

 

2001年付のあとがきでは、イランのハータミー大統領の来日時の高尚なスピーチに触れ、好印象を述べていますが、「西欧」と「中東」/「イスラーム」という二分法はルイス同様に不文律となっており、以下のような記述はこうした二分法から来るものでしょう。

(前略)…帝国主義の終焉で、大国はもう、かつてのように中東の内乱に干渉して自国民の血を流したり、莫大な戦費を負担したりする意思も余裕もない。国際社会は紛争をひとまず停止させ、敵味方をモザイク状に残したまま、未来を地域住民の民主的選択にゆだねようとしている。

 ところが、その民主化にも落とし穴がある。世界的な傾向として、教育があり、判断力もある人たちは子供の数が少ない。良識ある中間層の討論の場やチェック機構が十分発達しないうちに、目先の利害しか考えられない人たちのあいだにどんどん生まれた子供たちが二十年、三十年のあいだに有権者となり、多数決を金科玉条とする民主主義が、独裁者を「民主的」「合法的」に権力の座に送ってしまう危険は十分にあることも本書に示唆されている。(p. 720。下線強調は引用者による。)

 

何を言ってるんでしょうか。もちろん、貧困と出生率と教育レベルの間には、統計的には関連があるのだと思いますが、問題なのはそこに見出している価値観です。

 

良識に欠けた人たちほど子沢山で、その子どもたちが増えるのは危険だ、などと言うのは、まさに中東や下流社会の問題を自分たちの社会の問題として認識することなく、完全に外側から眺める「ウォッチャー」であるばかりか、さらに自分たちに被害を及ぼす可能性のあるものとしてしか捉えていない点で、子どもを敵視し邪魔者扱いする寂しい老人と何も変わりません。バス停に寝泊りする路上生活者を殴り殺すところまでは、あと一歩です。

 

2020年の文庫版のあとがきでも、ほとんどテロのことしか書いていませんが、「イスラーム教徒はなぜ過激化するのか?」(p. 728)という問いの立て方自体がバイアスの産物であることは、先ほど書いたとおりです。

 

最後に細かい点ですが、固有人名のカタカナ表記については、概ね標準的ですがところどころおかしいものがありますので、学生さんは歴史事典等で確認するとよいでしょう。訳者が説明する地域差による発音の違い(p. 722)もありますが(ちなみにここでの、「巡礼」の発音の説明もおかしい)、「イムル・アル・クエイズ」(p. 484、正しくは「イムルウ・アル・カイス」)、「マカーマー」(p. 488、正しくは「マカーマ」、複数形「マカーマート」)のような表記は端的に英語風に読んだものと思われ、また、『キターブ・アル・アフガーニー』(p. 486、正しくは「アガーニー」)などは原著に由来するのか訳者に由来するのか校正に由来するのかわかりませんが、勘違いでしょう。

 

本書の評価に関しては、日本語版の書評は未見ですが月刊誌に掲載のものがあるくらいで、原書に対する英語の書評がいくつかあります。研究に使うとすれば、ルイス個人の伝記とか、政治と歴史叙述の関係とかをテーマにする人でしょうか。

 

書評

小沼純一(2001)「BOOK REVIEW 書評 『イスラーム世界の二千年--文明の十字路 中東全史』バーナード・ルイス」『論座』(77) 315-317.

Silvera, Alain (1996). 'Bernard Lewis "The Middle East" (Book Review).' The New Criterion 14(10): 81.

Bulliet, Richard W. (1997). 'Bernard Lewis, The Middle East: A Brief History of the Last 2,000 Years (New York: Scribner, 1995). Pp. 433.' International Journal of Middle East Studies 29(4): 634-635.

Satloff, Robert B. (1997). 'The Middle East by Bernard Lewis (Book Review).' Commentary 103(4): 65.

Voll, John O (1998). 'Bernard Lewis. "The Middle East: A Brief History of the Last 2,000 Years" (Book Review).' The Historian 60(3): 609.

 

 

 

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