鳥よ、鳥よ、鳥の物語
連休中にブログを更新しようと思ったのだが、実家にいるので本が参照できない。
というわけで、特に証拠もない与太話を。
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ペルシア神秘主義文学の最高峰(の次ぐらい)の詩人、アッタールに、『鳥の言葉』という著作がある。
『鳥の言葉』というタイトルから、犬語とか猫語みたいな意味で「鳥がつかう言語」を想像する人がいるかも知れない。
原語タイトルをラテン文字で表記すると、Manṭiq al-ṭayrである。「言葉」と訳されている部分、manṭiqは、普通、「論理学」を指す。「言葉」という意味もあるのだが、manṭiqの語根n-ṭ-qは、弁ずる(辯のほう)とか、述べるというような意味に関係しているから、これは要するに「鳥の弁論」といった意味である。
歴代のオリエンタリストたちは、これをThe Conference of birds、鳥たちの会議、鳥たちの集会みたいに訳してきたが、内容にもとづいて意訳したもので、タイトルを直訳したものではない。
(ウンチクここまで)
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さて、あるとき、古本屋で『鳥の物語』という本を見つけ、なんとなくアッタールが「誦め」と言っているような予感がして、手に取った。
見ると、中勘助(1885-1965)の作品である。私はもともと外国かぶれでこの世界に入っているので、中勘助の作品を読んだことがなかったのだが、パラパラとめくってみて、
「これは・・・!」
この作品も、アッタールの『鳥の言葉』同様、鳥についての物語ではなくて、鳥たちが入れ替わり立ち替わり語る物語なのである。これはアッタールの『鳥の言葉』に着想を得た可能性大ではないか?と思い、ひとまず買って帰った。
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さて、『鳥の物語』の内容には、どこにもペルシア文学的要素がないのだが、あとがきを見ると、こう記されている。
「鷹の話」はルスタムとフーラーグの物語を使おうかと思ってたところたまたま妹たちと童話の話をしてるうちに与えられた暗示によって即座にヨゼフのそれとかわった。かわってよかった。(岩波文庫版「あとがき」p. 377)*1
ル、ルスタム!?なんだ!?中勘助はペルシア文学を読み知っていたのか!?
ルスタムといえば、普通は『王書』などの伝説的物語に登場する英雄(現代ペルシア語では「ロスタム」)のことである。
「ルスタムとフーラーグ」というのは耳慣れない組み合わせである。フーラーグ、すなわちフレグといえば、ペルシアを支配したモンゴル系王朝であるイルハン国の創始者であって、神話時代の英雄であるルスタムとの接点は管見の限り見当たらない。ブラーク(預言者ムハンマドが夜の旅で跨ったとされる馬)の誤記という可能性もあるが、それにもルスタムとの接点はない。これはおそらくスーラーブ、すなわちルスタムの息子スフラーブSuhrābを英語読みした形が、何らかの理由で誤植されたものであろう。
ルスタムとスフラーブ(現代ペルシア語風には、「ロスタムとソフラーブ」)の物語は、イランの国民的英雄叙事詩であるフェルドウスィーの『王書』の中で、もっとも有名な逸話の一つである。中勘助の同時代では、中条百合子(のちの宮本百合子)が「古き小画」のタイトルで訳出しており(青空文庫の情報によれば、初出は『小樽新聞』1924(大正13)年1月14日~3月9日号)*2、百合子はこの作品を書くに至った経緯を、『宮本百合子選集』第二巻の「あとがき」に記している。
〔前略〕ところが、宮原晃一郎さんは、わたしがことわったにもかかわらず、再三、小樽新聞にかくことをすすめられた。何でもかまわない、書きたいものを、書けるように書いていいから、とすすめられた。わたしも、それまでをことわる心持がなくていたとき、不図したはずみで、一冊のペルシア美術に関する本を見る機会があった。ライプツィッヒで出版されたその本には、古代ペルシアの美しいタイルの色刷りや小画(ミニェチュア)の原色版がどっさり入っていた。そのミニェチュアの央に、特に色彩の見事な数枚があって、それは英雄ルスタムとその息子スーラーブの物語を描いたものだった。
ミニェチュアの解説はごく簡単であったから、わたしはただその絵の印象やルスタムという伝説の英雄の名を憶えただけであった。
暫くして、ペルシア文学史をよむ折があった。そしたら、その中にまたルスタムが出て来た。息子のスーラーブの名も。ルスタムとスーラーブの物語は昔のペルシア人が、云いつたえ語りつたえ、ミニェチュアにして描きつたえた物語だったことがわかり、同時に、その昔譚のあらましも知ることが出来た。
わたしは、小樽新聞の小説のことを思い出した。自分の生活や心の内の風浪とかかわりのないルスタムの物語ならかえって書けそうに思えて来た。その気持はだんだんはっきりして来て、やがて、どうしても勇気を出してこの物語は書き終せなければならないと決心するようになった。手に入るだけの材料からノートをつくって、それをもってその夏福井県の田舎の村へ行った。わたしが一緒に暮していたひとの故郷がその村であった。
「一緒に暮していたひと」は、1918年から1924年まで夫婦関係にあった福井出身のイラン学者、荒木茂であろう。ミニアチュールを通して「ルスタムとスフラーブ」の物語を知っていた百合子は、荒木の『ペルシヤ文学史考』でルスタムの物語を再び知り、荒木が所有する資料を使って「古き小画」を執筆したと考えて間違いないであろう。
中が『鳥の物語』の童話を構想したのは、親交のあった和辻哲郎の長女のためであったとされ、1930年代のことだったとされる。『小樽新聞』に掲載された「古き小画」は何度か百合子の選集や著作集に収録されているから、中がそのいずれかを目にしている可能性は十分にある。
いずれにしても、中が「ルスタムとフーラーグ(i.e. スーラーブ)」に言及していることから、彼が英語の文献を通じてペルシアの物語に関する知見をもっていたことがわかる。
では、肝心のアッタールの『鳥の言葉』について、中が知っていた可能性はあるだろうか?
答えは、大いにありうる、である。
まず、上述の荒木の『ペルシヤ文学史考』には、アッタールの『鳥の言葉』に関する概略が記されている。
〔前略〕此處には「マンティクト、タイル」(鳥の言葉)の作に就き一言して、他の詩人の研究に移りたい。此作は四千六百餘句の大詩篇であつて、スーフヰー〔「ヰ」は小文字〕派の巡禮者が「眞理」を探究することに擬へて書かれたものである。中に描かれたシームルグ(Sīmurgh)と稱する鳥は「眞理」を、他の鳥は其等の巡禮者を意味したのである。其作は先づ、他のペルシャの詩作にも共通なる神の讃美と王者に對する頌で初まり、十數種の鳥相會し、シームルグを捜索する一團を指導すべき鳥の選擇につき叙し、異なる鳥が各口實を設け、その重任を辭する時、戴勝〔ルビ:やつがしら〕立つて其責を負ひ、幾多の苦を嘗めて、終に「眞理」を見出すと云ふ詩想である。シームルグに會した時の一節に、
「苦と耻とを過ぎて、鳥の心靈は「空」に歸り
軀は木乃伊〔ルビ:マムミー〕と化す。
斯く總て淨められ、彼等皆、
「現」の「光」より「生」を稟く。
新なる魂にて彼等再び僕となり、
また驚異に壓せらる。
古く犯せる罪、爲さゞりし罪は潔められ
彼らの胸より失せぬ。 (中略)〔ママ〕
確かに認めしシームルグの姿!
右に、左に、前に、後に、皆シームルグ
又己を省みてシームルグを知る」。と歌つている。
出典:荒木茂『ペルシヤ文学史考』(岩波書店、1922年)pp. 260-261 ※〔〕は引用者注、それ以外は原文のママ。
荒木は『鳥の言葉』についてこれ以上のことは書いておらず、シームルグ(Sīmurgh)との邂逅において、鳥たちは自己、すなわち最後に残った三十羽の(sī)鳥(murgh)の姿を見る、という核心の部分を訳し損ねている。関心のある方は、黒柳恒男『増補新版ペルシア文芸思潮』(東京外国語大学出版会、2022年)pp. 113-117.に同じ部分の翻訳と解説があるので、参照されたい。
それはさておき、中勘助の『鳥の物語』は、異なる鳥が順番に物語を語るという設定は似ているが、それぞれの物語の内容は独自のものであるから、この荒木の説明だけを読んで、鳥たちが次々に君主の前で物語る枠物語の着想を得たとしても不思議ではない。
また、中の生前には、すでにド・タスィGarcin de Tassyによる仏訳(1863年)、フィッツジェラルドE. FitzGeraldによる英訳(1889年)、R.P. Masaniによる英訳(1924年)が刊行されているから、中がフィッツジェラルド訳あたりを参照した可能性も、無きにしも非ずである。
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さて、ここまでは調べてメモを取っていたのだが、この先へと議論を進めるためには、やはり中勘助についての研究が必要になる。中勘助の作品を全部読んで、さらに静岡市が所蔵するという中勘助資料にも目を通す必要があるだろう。
はっきり言って、いま私にはその余裕がないし、そこまでいくと私の仕事ではないように思える。
また、その結果得られそうな結論は何かといったら、
中勘助の名作にもペルシア文学が影響を与えていた!やっぱりペルシア文学は世界文学のネタの宝庫や〜!!
という程度のことである(笑)。
「ペルシア文学は世界文学のネタの宝庫や〜!!」
分かり切ってます。既成事実です(笑)。
しかし、学生が卒論でやるにはちょうどいいネタかも知れない。誰かやりませんか〜〜?
(2021/5/3修正)