来るべきアレフバー の世界

イラン×文学×図書館=

アドニス『暴力とイスラーム:政治・女性・詩人』

1月初めに通勤電車の中で読んだ本。

 

暴力とイスラーム 政治・女性・詩人

暴力とイスラーム 政治・女性・詩人

 

 

これはいただけない。

 

アドニス(Adonis)と言えば、昔、大学の図書館でアラビア語の本を整理しとったときに何度も名前を見たでよお、まあ重要な詩人なんだろうと思っとったし、どっかでエドワード・サイードも褒めとったから、まあマフムード・ダルウィーシュぐらいに一目置かれるべき詩人なんだろう、と思っとったんだが。

 

しかしこの本のアドニスは、完全にダーイシュ(イスラム国)やその他の過激ジハード主義者を批判するために、イスラームスンナ派的な)まで否定してしまうタイプの、あれだね、一昔前の、すっかり西洋化した第三世界インテリになり下がってしまっている。インタビュアーの女性も完全に西洋化されたタイプの人で、二人してイスラームのあれはダメだ、と言いあうばかりで話が展開しない。

 

まあ、1930年代生まれで、西欧で暮らす知識人にとっては、西欧の知性を身に着け、西欧の言葉で語るっていうことが、なんか良いことを言っちゃってる人になるための指標なのかも知れないが。その点は日本のこの年代の知識人でも同じか。

TeXの導入に挫折し(かかっ)てる話

 

TeXも使えんとは、あほか」

 

と、理系の方々には思われるかも知れないが、多言語を使う人がエディタ代わりに使うにはあまり便利なものに思えなかった、という話。

血迷った経緯

もうMS Wordで原稿を書くのが狂気すぎる、そうだ、TeXを使ってみよう、と思い立ったのは今年の春頃だったか。

 

というか、なぜWordを使わなければならなくなったのか。

・・・Wordを使うようになった経緯

私は元々(1999年ぐらいから)、ものを書くときはMac派だった。日本語の文章のなかでアラビア文字を使ったり、アラビア文字の転写のためのラテン外字(ūとかḍとかz̤とか)を使うことが多いこの業界では、2000年頃まではMacを使うのがセオリーだったのである。その頃、修士課程に入ったばかりの私が初めて購入したのはOS 8.xを載せた5色のiMacだったが、研究室にはもっと古いMacがあって、大学院生の良いオモチャになっていた。この、OSX以前のいわゆる旧OSでは、アラビア語などの非西欧言語を使うためには、コントロールパネルに言語ごとのLanguageKitとかいうものをインストールする必要があった。ワープロソフトはNisus Writer(日本語版)が定番。

 

その後、ユニコードに対応してArial Unicode MSフォントを搭載したWindows2000の登場により、アホンドウズのWord2000でも日本語アラビア語混在の文章が簡単に作成できるようになり、MacArabicユーザの多くが離反し、Win派に転向。

 

私自身も、職場ではWindowsを使うことが多いから、両刀使いになるが、自分の研究で物を書くときは、文書レイアウトやフォントの美しさから、MellelNisus Writer Proを使うためにMacを使い続けていた。しかしそれも2016年ぐらいまで。

というか、Mellelで検索すると、大学院生の時に書いたクソ古いMellelのレビューがいまだに出てくるんだが・・・専攻語のウェブサイトの更新体制、どうにかしようよ・・・

 

因みに、アラビア文字には対応していないが、研究会のポスターなんかを作るのにEGWord Universal(当時はエルゴソフトから販売)がとても便利で、大学院生の頃はよく使った(2008年に開発終了、現在は物書堂から販売)。

 

2010年代は、あらゆる書き物を完全にクラウド上のストレージ(DropboxとかGoogle Driveとか)に置いて、職場でも自宅でもカフェでも出張先のホテルでも愛人宅でも同じファイルをいじれるようにする必要に迫られるようになり、両刀使いの自分にはMac専用のワープロソフトで書くのがしんどくなってしまった。自然と、MellelやNisus Writerを使わなくなったのが、TY文庫で働いていた頃。

 

そうなると、WindowsでもMacでも使えるMS Word一択になる。OpenOfficeとかLibreOfficeも使ってみたが、Mac版とWin版の互換性とかアラビア文字の運用ではWordに一日の長があり。

 

とはいえ、Wordが最高のワープロだと思ったことは、一度もない。デフォルトのスタイル設定が気に入らないし、見出し1〜5の体裁のダサさ、印刷原稿と編集画面との差にうんざりする。業務文書しか書く気がしない。印刷された文書は学校の配布文書みたいで、まあまあ綺麗なのだが、画面上ではとても醜い。オートコレクトが余計。環境がちょっと変わるとすぐオートコレクトがオンになって余計なことをする、番号付きリストの挙動がおかしい、リッチテキストをdocxに変換すると壊れる、Office365とOffice2016を併用していると、いつも使っているファイルが読み込み専用になる、書き込みできなくなり上書き保存ができなくなる、などなど。

 

なぜそうなるのか、理屈として分かる部分はあっても、急いでいるときに要らんオートコレクトがかかったりファイルが上書き保存できなかったりするのは、ストレス以外の何ものでもない。

 

万人向けワープロの「便利な機能」(=お節介)に邪魔されずに、ガンガン書いて、スタイルは後で考えたい。それならば、プレーンテキストのエディタで書けば良いようにも思えるが、脚注とか相互参照とか図表挿入の機能が使えるということがあらかじめ担保されていないと、後で面倒になる。

 

TeXを思い立つ。Word卒業の重い腰を上げる

というわけで、エディタについては常に欲求不満になっていたのだが、TeXに関しては、以前、先輩が「テフ」なるものを使ってガンガン原稿を書いているのを見たことがあって、その「テフ」という奴ならガンガン書けるのだろうという、不確かな印象はもっていた(2008年頃)。今考えれば、あれは自分で雑誌の版下作って印刷所に回すためだったんだな。

 

ということで、ときどきTeXの導入を試みてはみるものの、これが、ネット上の情報だけを見ていると、 いろんなところが良くわからない。これはTeXに限らず、各種のプログラミングでも、GitやWordPressの使い方でもそうなんだが、数多あるブログのような解説記事は、ほとんどが広告料とかアフィリエイト紹介料のためだけに量産されたゴミ。書いている人の環境で「これをこうしたらできる(できた)」みたいなことしか書いていない。ちょっと環境が変わるとどういうエラーが起こる可能性があるとか、その場合どうするべきかとか、根本的な仕組みの説明ができていないから、他人には使えない情報ばかりで、しかも人のブログからソースを転載しているだけというものも多い。こういうサイトに負のブックマークをつけて検索結果に現れないようにできるブラウザが欲しい・・・

 

というわけで、コロナで在宅勤務が増え、通勤にかかる時間や手間が減った分、ちゃんと教本を開いてTeXの導入に踏み切ってみた。使った本はこちら。

 

[改訂第7版]LaTeX2ε美文書作成入門

[改訂第7版]LaTeX2ε美文書作成入門

 

 

この本はとても良い。説明も丁寧なので、この本の指示の通りにやれば、大抵の人はpLaTeX2eを導入できるだろう。私自身も、なんなく導入することができた。また、この本をはじめから読んでみて、私のような人文系の初心者がつまづくであろう点の多くが解消された。

 

例えば、初心者(かつ目的意識のある人)にとって難しいのは、選択肢が多すぎて、最初にどれを使えばいいのか分からないことだ。TeXにもLaTeX、LuaTeXなど様々なTeXがあり、何がベストチョイスなのかわからない。これはプログラミング初心者にもあることだが、Cから始めるのか、Javaから始めるのか、Rubyから始めるのか、何らかの目的があってプログラミングを学ぼうという人は、最初から最適な合理的な道を望む。しかし、例えば図書館システムを作りたいとか、OCRを作りたいとか、目的は人それぞれだから、RubyがいいのかRがいいのかPythonがいいのか、ネット上の情報ではなかなかわからない。結局は、試行錯誤を繰り返すしかないのだろうが。

 

TeXについて言えば、この本を読んでようやく分かったことだが、エディタというより組版のためのソフトである。つまり、上で触れた先輩は、自分で雑誌の編集を行って入稿する役目だったので、はじめからTeXで書いていたのだが、TeXでの入稿を指定する学会誌への投稿論文でもなければ、TeXを使うメリットは半減する。

 

理工系では数式を表現するためにTeXを使うという事情がある(あった)のかも知れないが、人文系の語学屋にはそのメリットもあまり意味はない。

 

なので、一応pLaTeXの導入には成功したのだが、アラビア文字を使うとなると、これがまた面倒。pLaTeXではアラビア文字レンダリングするためのパッケージ(arabtex)を組み合わせて使うことになる。この場合、文章中にはアラビア文字を直接入力するのではなく、\<~> または \begin{arabtext} と \end{arabtext} の間に、ASCII文字で入力するのである。

 

たとえば、بسم الله الرحمن الرحيمと出力したい場合は、\<bismi al-ll_ahi al-rra.hm_ani al-rra.hImi>のように入力するという具合である。

 

この時点で、アレレ、20年前に逆戻りか?という・・・

 

Wordなどのワープロファイルで作った多言語文章をそのまま印刷所に入稿すると、アラビア文字がうまく表示できない、なんてことは今でもよくある。DTPソフト側がアラビア文字に対応していないからだ。そういう事情があるならば、確実にアラビア文字を表現するために、こういう手を使うのもありだろう。しかしきょうび、Unicodeがこれだけ普及しているんだから、こんな方法じゃなくてもなんか別の手があるんじゃね?

 

もちろん、TeXで直接アラビア文字を入力する方法はある。

 

例えば、pdfLaTeXなどでは、inputencというパッケージをarabtexと組み合わせて使うことで直接アラビア文字を入力できる。また、多言語入力ではXeLaTeXやLuaLaTeXを使うことが多い。これらはUTF-8エンコードテキストを直接読み込み、True TypeとOpen Typeのフォントをそのまま用いることができる。

 

しかし、その場合でも、メインの言語以外の外国語の文章は、都度 \begin{Arabic}\end{Arabic} のような命令で囲む必要があるのである(おおい!!)。編集中も、テキストエディタでこういうローマ字の命令の間にアラビア文字を入力するから、一度入力した文字列を後から一部修正したりするのがまどろっこしくてしょうがない。

 

また、マルチプラットフォームという私の希望にもTeXはそぐわなかった。

 

TeXには様々なディストリビューションがあり、それぞれあらかじめインストールされているパッケージなどが異なり、同じ文書ファイルをレンダリングするにも挙動が異なる。OverleafのようなオンラインのTeXエディタソフトを使えば、プラットフォームの違いは解消されるが、個人的には(このブログもそうだが)ブラウザ上で文章を書くのはあまり好きではない。何かの拍子にブラウザを閉じてしまったり、ネットが切れたりということを考えると、やはりローカル環境でテキストエディタを使うのが気分的に楽だ(HSPなので)。となると、端末ごとに環境をつくらなければならないし、MacWindowsも使うとなると、また環境によって挙動が変わってしまう。

 

また、TeXでの文献管理はbibTeXというツールを使うのだが、これも多言語でやるには同様に外国語部分を命令で囲まないといけないなど、面倒なことがある。

 

というわけで。

 

TeXを使うにあたって、Gitでバージョン管理もできて便利なのではないか、という期待もあったのだが、Gitのバージョン管理というのはWikipedia編集履歴のアレみたいなもので、たとえば前に削除した部分を復活させたりとか、使わなかった文章の断片を別の文章でも使えるようにプールしておいて、という使い方には向いていない。そういう使い方をしたいのであれば、Scrivenerのようなソフトのほうが便利だろう。 

 

ガンガン書く以前に、いちいちパッケージを入れたり、その都度命令を書き込むという煩わしさだけが目に付いてしまった。それだったら、WordやNisus WriterやMellelのほうが便利だなあ、と、多言語ワープロソフトの便利さを再認識してしまった次第である。

 

単に私の能力の範囲で検証しただけなので、いやいや、こうすればもっと簡単だよ、というのがあれば教えていただきたい。

ダグラス・マレー『西洋の自死:移民・アイデンティティ・イスラム』

昨年12月に電車の中で読んだ本。

 

 

原書は2017年刊行。日本語版は2018年12月で、中野剛志氏による解説と、現著者によるペーパーバック版のあとがき(2018年1月26日付)の和訳も収録されている。索引はない。

 

普段、この手の、書店のビジネスマン向けの書棚のあたりに平積みされていそうな本には食指が動かないのだが、サブタイトルに「イスラム」の語が入っており、目次を見ると『悪魔の詩』事件に関する記述があり(第7章)、ウェルベックの小説についても触れられている(第16章)ので、どんなことを書いているのかと興味を持って読んでみた。 

 

結論からいうと、知的な意味で面白いところは一つもなかった。

 

簡単に言えば、この本はヨーロッパに大量に移入する移民によってヨーロッパの優れた文化が消滅の危機に面しているとして、ドイツに代表される移民に寛容な政策を批判するものである。それは別に良いのだが、著者はその論拠として、移民、特にイスラーム教徒による犯罪の増加や、移民の増加によるヨーロッパのアイデンティティの危機、イスラームがいかにヨーロッパにそぐわないかといった、感情的な、バイアスに満ちた事例を積み重ねるだけなので、当然ながら建設的な主張を導き出すことができない。

 

不思議なのは、難民や移民——著者はしばしば、恐らくは意図的に、様々な背景を持つ難民や移民をひと絡げに論じる——を大量発生させている原因であるところの、中東やアフリカで起きている事態には検証を加えようとしないことだ。下手にこれらの問題に切り込めば、根本的な原因はイギリスが外国に対して行ってきた帝国的な振る舞いにあると言われかねないことを、著者は分かっているのだろう。

 

つまり、この本は、移民受け入れに寛容な西欧諸国の政策を見直させるために、様々な事例を挙げて危機感を煽るものであって、難民問題の解決策を考えるとか、そういう探究心から書かれたものではない。

  

移民問題、難民問題は、日本も含めた世界の国々で取り組むべき大きな問題であり、一度に大量の難民を受け入れれば大きな摩擦が起こるであろうことは容易に想像がつく。難民を減らすためには、ただ国境を閉ざすことではなく、各国がキャパシティに応じて分担して少しずつ難民(自発的な移民とは区別される)を受け入れることと、大量難民の発生する原因となっている紛争や災害や飢餓を取り除くための援助が必要ではないか。

 

ただこれだけのことを否定するために、500頁もの紙幅を割いてイスラーム恐怖を煽る必要があるのだろうか?

 

欧米の書評では、本書を「上品ぶった外国人恐怖症」と評しているものもある。

www.theguardian.com

 

本書には、移民問題や難民問題とは別の次元で、この著者が「優れたヨーロッパ」と「それ以外」という二分法で物事を考え、そこに人種的偏見を落とし込んでいることがわかる表現が散見される。

 

ユダヤキリスト教の伝統、古代ギリシャ古代ローマ啓蒙思想の発見といった支脈から形成された文化は、これまで何物にも揺らぐことはなかった」(p. 14)

歴史上で最も偉大で洗練された文明であろうとも、それに値しない人々の手で一掃されうる」(p. 15)

 

「現在の思潮は、ジェノヴァ人とフィレンツェ人がイタリア人として同化したように、エリトリアアフガニスタンの人々も、来たるべき歳月のどこかの時点で欧州に同化するというものであるように思える。エリトリアアフガニスタン出身の人々は肌の色も違うし、人種的なルーツも遠く離れているかもしれない。しかし欧州は欧州であり続け、その住人はヴォルテールや聖パウロ、ダンテ、ゲーテ、バッハの精神に同化し続けるだろうと。」(p. 17)

 

ここで肌の色や人種に触れることに何の意味があるのか?この後、p.19で著者は、欧州人のアイデンティティを考える上で、人種に関わるものではないということを一応認め、それならば欧州人のアイデンティティは価値観に関わるものでなければならないとしているが、それならば上のようなことは初めから書くべきではない。結局本音では人種差別的な見方に支配されていることが明らかだ。

 

そして、欧州人のアイデンティティを価値観に求めようが、人種概念に求めようが、そこから、終わりのない議論が繰り返されるであろうことは容易に想像がつくだろう。国籍以外に欧州人のアイデンティティなど規定することはできないから、神学論争に陥るほかない。それとも、この本はイスラーム教徒が増えるのは喜ばしくないが、仮に何らかの戦争や危機的状況によってウクライナイスラエルから大量の難民が西欧に押し寄せたら、喜んで受け入れるのだろうか?そこでもまた文化や宗教・宗派の違いを盾に、同じ論法を展開するのではないだろうか?

 

「歴史上で最も偉大で洗練された文明」から生まれる言葉がこの本のように劣化していることこそ「西洋の自死」ではあるまいか。

 

 

 

 

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