お久しぶりね
ブログを書くなんて
あれから
何年
経ったでしょうか
何の替え歌か分かる人は、もう「若手」を名乗っちゃだめですよ。
さて、前回の記事を昨年5月にアップしてから、プライベートで大きな環境変動があった。その後、少しずつ文章を書く体勢を立て直し、仕事の一環として以下の雑文を書いた。
1.徳原靖浩「メフルジューイー『ハームーン』」『アジア研究圖書館 : 東京大学アジア研究図書館ニューズレター』第4号, pp. 11-13. (オンライン)
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/sites/default/files/150-UTARLnews_04_20210701.pdf
日本のイラン映画に関する言説において殆ど無視されている映像作家、ダーリユーシュ・メフルジューイーについてはこのブログでも何度か言及してきた。
アジア映画について何か書けというお題をいただいたので、メフルジューイーの最高傑作とも言われる『ハームーン』について紹介した。
この夫婦像がイラン政治のアレゴリーになっているというところにもうちょっと踏み込みたかったのだが、紙幅一杯、時間一杯。しかししばらくこういう文章を書いていなかったのでこれはよいリハビリになった。
2.徳原靖浩「イラン思想史×イスラーム地域研究情報資源学:二兎を追う者の方法叙説」
http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/column42
職場のノルマとして自分の研究にまつわるコラムを書くということになり、堅苦しい文章でなくてよいというので久しぶりに羽目を外して書いた。
電子書籍が普及して紙の本はなくなるとか、ユビキタス社会になると自分で物事を記憶しなくてもいいとか、新しい技術が出るとすぐ極端なことを言い出す人がいるが、知識を記憶する必要がなくなったら大学入試とか資格試験はどうするんですかね。
検索早押しクイズでもやるってかw。仮にそうなったら、反射神経と体力勝負ということになり、長老の教授が一番使えないということになるではないか。
安部公房を「未来バカ」呼ばわりした往年の吉本隆明ならそういう人を「ユビキタスバカ」とでも呼んだに違いないが、本というのは読むためにあるのであって、しかも読むことは単に読み終えるためでなくて頭に入れるためにするものである。そのためには同じ本を何度読んでもよい。たとえ1年に1冊でも、目的をもって読むなら自分や世の中を変えられる可能性はある。しかし「年間何百冊の本を読みました」と豪語する「超一流」(←最近多い二流のキャッチコピー)の「読書家」に何ができる、あるいはできたのだろうか。できたなら教えてくれ。せいぜいが「年間100冊読む方法」「多読のススメ」「本を読むと頭が良くなる」などと情報を売り、その売る方法を売って小銭を稼ぐだけである。学者としてテレビに出てきた脳科学者や心理学者や人たちがタレントと化し、やがてこのような情報商材商法に染まっていく。
(コラムの記事とは関係ありませんw)
3.徳原靖浩「井筒俊彦『イスラーム思想史』ほか」(コラム「アジア研究この一冊!」)
http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/this-book9
4.徳原靖浩「黒柳恒男『増補新版 ペルシア文芸思潮』」(コラム「アジア研究この一冊!」)
http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/this_book15
待望の『ペルシア文芸思潮』の復刊が、ついにこの3月に実現し、増補新版が出た。古書店のみなさんには旧版の値下がりを引き起こしてしまい申し訳ないが、新版は旧版の本文(新たな補注と、若干の訂正を含む)に、「さらに知りたい人のための文献案内」、網羅的な索引がついている。これは買いだ。
イランについて勉強する人にとって、こういう、日本語で読める文学史の存在は本当に貴重である。日本語で文学史が書かれていない国や地域のほうがずっと多いからだ。そもそも歴史の浅い国や言語は古典文学を持たないし。
ペルシア語を勉強する人は、日本語の教科書や辞書や文学史があることを誇りに思うべし。そしてイランを専門とすることを誇りに思うべし。酒が飲めないとか、おネエちゃんのいる店がないとか、そういうことを言ってはいけない。そんなもんはサアディー『薔薇園』の面白さとケバーブの香ばしい匂いの前では吹き飛んでしまう。
『イスラーム思想史』と『ペルシア文芸思潮』さえ読んでおけば、人生はなんとかなる!あとはペルシア語を勉強してペルシア文学を読もう。豊かな老後を約束する。
というわけで、仕事でもブログを書く羽目になり、はてなブログを書く気力を吸い取られています。時間と気持ちに余裕のある方はご笑覧ください。