先日は外語祭のペルシア語劇「アルサラーン伝」を観に行きました。オリジナルの脚本ということで、どんな話になっているかと期待して行きました。とても良かったと思います。丁度、ペルシア語の『アミール・アルサラーン』と『アルスラーン戦記』の間にあるようなお話になっていて、こう考えると『アミール・アルサラーン』と『アルスラーン戦記』もあながち全く違うとは言えないのかも、と思ったりして。
あらすじの紹介が滞っていますが、気長にお待ち下さい(笑)。
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さて、今回はイランと関係ない(?)映画ですが、珍しく試写会で観られたので、公開前にレビューを書きます。
この映画の原題は「ティンブクトゥTimbuktu」。日本ではフランス映画祭2015(6/26~29)において、「ティンブクトゥ(仮題)」の題で上映されました。
そのとき、観たいな〜と思っていたのですが、今回、『禁じられた歌声』という邦題で12月に上映されます。配給は太秦。
ティンブクトゥTimbuktu(フランス語名はトゥンブクトゥTombouctou)は、マリ共和国の北部にある歴史的な街です。中世においてサハラ交易で栄え、貴重なアラビア語写本が多く保存されていることでも知られています。
"Timbuktu-manuscripts-astronomy-mathematics" by Unknown - EurAstro : Mission to Mali. Licensed under Public Domain via Commons.
以下、感想です。できるだけネタバレしないように書いていますが、一部の場面について必要上説明しています。あしからず。
もしもあなたの街が過激派に占拠されたら
映画は例のジハーディストの黒い旗をはためかせる武装勢力の男たちが、トヨタのピックアップトラックに乗って、銃を乱射しながらガゼルを追いかける姿で始まります。
男が言う。ガゼルを直接撃つな、まず疲れさせろ――
そして、砂の上に置かれた、いかにもサハラ地域の伝統的なものと思われる木製の仮面や人形が、射撃の的となって破壊される場面。カメラは、破壊されて顔と片側の乳房を失った人形にクローズアップします。これから起こるストーリーの中で、狂信的な男たちが市民を、そして女たちをどのように抑圧するかを物語っているかのようです。
この映画は反イスラーム的か?
映画のストーリーについては、ここで多くを語ることはやめておきます。この映画は、ハッピーエンドに向かっているのか、それとも悲劇的な結末を迎えるのか、最後まで予測がつかないようになっています。それは武装勢力の支配下で生きる現実と同じかも知れません。
この映画は、イスラーム過激派によって文化が破壊される悲劇を描いていますが、「シャルリ・エブド以降」である今日、私は、あることを考えながらこの映画を観ていました。それは、この映画がイスラモフォビア(イスラーム恐怖症)を誘発する意図を持つもの(プロパガンダ)であるのか、あるいは意図せずして、そのような効果を与えてしまうものかどうか、ということです。
最近は、日本でもイスラームに関する出版物や報道が増え、日本在住のムスリム(イスラーム教徒)の声もしばしばメディアで取り上げられていますが、当然ながら物事の理解には個人差があります。全ての人がイスラームやイスラーム教徒を偏見なしに見ることができる訳ではありません。下手をすれば、「やっぱりイスラームは怖い」で終わってしまう可能性もなきにしもあらずです。
人間性を持ったジハード主義者たち
シサコ監督は、自分が少年時代を過ごしたマリで投石刑が行われたという報道に対するショックが、この映画の制作のきっかけの一つだったと述べています。作中では、彼らの信じる「法」に則って、残酷な投石刑で殺されるカップルや、同害報復刑(キサース刑)によって家族と引き離され、殺されていく人を描いています。こうした刑罰の存在は、イスラームの残酷性を示すのに十分でしょう。だからこの作品を観て、やっぱりイスラームの教義は根本的に残酷だという思いを強くする人がいても不思議ではありません。映画の後半をみながら、このままエンディングになると、イスラモフォビアを増強して終わりにならないだろうかという懸念が沸いてきたのは事実です。
しかし、この、どこか長閑な人々の姿の描写には、考える余地がたっぷり与えられています。もしこれが反イスラーム的な宣伝を狙った映画なら、なぜ武装勢力をもっと残忍で冷酷な悪の存在として描かなかったのでしょうか。
監督は、ジハーディストたち自身が、イスラームの掟では説明できない感情を持ち、村人に禁止している煙草を隠れて吸ったり、サッカーの話で盛り上がったりする場面を用いて、彼らにも矛盾した、人間的な面があることをしっかり描いています。そのため、彼らの支配の仕方はどこか滑稽なものに見えます。彼らを見ていると、話せばわかるんじゃないか、昔の刑事ドラマの取調室の場面のように、カツ丼を食わせて田舎のお袋さんの話題を振れば、態度が変わるんじゃないか、そんな気さえしてきます。映画を観ている人の多くは、そう感じるのではないでしょうか。しかし、現実はそう甘くありません。もし、映画が事実に反してそのようなストーリーを描くなら、現実に起こっていることに対して不誠実なものになるでしょう。
罪を憎んで、人を憎まず
私が強調したいのは、ここで対立的に描かれているのは、イスラームと非イスラーム、ではないということです。映画の中で抑圧されている住民たちもまた敬虔なイスラーム教徒です。この町にはもともとイスラームと調和したアフリカ文化が根付いており、モスクや信心深いイスラーム教徒やイスラーム法学者が存在します。
ある場面で、町の穏健な法学者は、親や本人の承諾を得ずに女子を無理やり結婚させるやり方は間違っていると武装勢力に対して忠告します。そのやり方は、家に招いてお茶を出すという友好的なやり方です。しかし「イスラーム」を看板にあげる武装勢力側は、法学者に敬意を払いながらも、支配者である自分たちが親のいない娘にとっての保護者である、自分たちは法に則ってやっていると主張し、譲ろうとしません。同じ宗教を信じるにもかかわらず、解釈や立場の違いによる対立が、埋めることのできない溝のように横たわっています。
また別の場面では、喧嘩の末に隣人を殺してしまった主人公が、アラビア語*1とイスラーム法を司る支配者の法で裁かれます。尋問中、被告は、リビアから連れてこられたという、どこか見覚えのある(=同郷人のように見える)通訳に問いかけます。なぜ彼ら(武装勢力)と共に行動するのか、と。そこに、「彼らは正しいから」という答えは出てきません。
また、ラッパーをやめて武装勢力に合流した若者が、ビデオ放送で自分の改悛を語ろうとする場面では、どうしてもうまく話せず、ホントはラップが好きな自分に嘘をつくことができず、最後は黙り込んでしまいます。
こんな風に、しつこいまでにジハーディストたちの人間らしさを描くことで、この映画は、恐ろしい出来事の原因が、彼らの本質とは違うところにあることを気づかせようとしています。「罪を憎んで人を憎まず」——映画を観ながら、こんな言葉が自然と頭をよぎりました。
狂気はどこにでもある
もし、テロや暴力が、イスラームという宗教(の教義)に由来すると言うなら、世界の至る所で起こっている暴力や抑圧の構造に対して無頓着だと言うほかありません。
無論、字義通りに解釈されたイスラーム法は、ジハードや異教徒への攻撃を正当化するのに役立っています。そのことを否定するつもりはありません。しかし、ジハード主義に身を委ねないイスラーム教徒のほうが圧倒的に多いのはなぜでしょうか。ジハード主義者こそがイスラームの教義を正しく体現しており、そうでない人たちは不信仰者であり、駄目なムスリムだということでしょうか。それとも彼らの全てはジハード主義を支持しており、あるいは内心では彼らに共感しており、ジハード主義者予備軍だということでしょうか。IRAや「バスク自由と祖国」のテロも、日本赤軍のテロも同じように理解できるでしょうか。
シサコ監督は、彼らのイデオロギーや宗教ではなく、彼らを駆り立てる狂気をこそ問題にしているように見えます。この点を私は評価したいと思います。しかし、この狂気がどこから来るのかについては、映画の中に明確な答えはありません。実際、答えは簡単には出ないでしょう。そうした狂気が私たち自身の内にあるものであることは、この映画からも感じ取れるかも知れませんが。
テロの話になると論点が少しずれてしまいますが、この映画にあるような、権力と支配がもたらす狂気については、疑似刑務所での実験を描いた映画『es』が参考になるでしょうか。
こうした問題については、慎重に考え続けて行きたいと思っています。考え続けることで、現下の情勢にとっては屁の役にも立たないですが、ひとたびテロや暴力がイスラームの教義に由来するのだと公言してしまえば、自説の正しさを補強するような状況が生じる度に安堵してしまいかねません。それは健全な知性にとって地獄を生きるようなものでしょう。■