映画『サイの季節』を3倍楽しむ方法
はじめに
バフマン・ゴバディ(ゴバーディー)監督、ベフルーズ・ヴォスーギー、モニカ・ベルッチ主演の『サイの季節』は新宿シネマートでまだまだ公開中です。現時点で、7/31までのスケジュールが出ています(追記:8/2現在、8/7までのスケジュールが出ています)。スクリーン2になっちゃいましたね・・・でも1日4回上映はすごい!!(のか?)
さて、公開前はあまり日本語の情報がなかったんですが、公開の直前になって、ネット上にも日本語の批評や紹介がたくさん出てきましたね。また、映画を観た方の感想なんかも次々に出てきました。
普通の映画として観た場合、大半の方が抱く印象は、「詩的な」映像やイメージで語られる、30年越しのラブストーリーあるいは三角関係ものといったところでしょうか。
もちろん、それは正しいのですが、ペルシア語読みとしては、イラン現代史の暗い側面、それからこの作品は詩を映像化したものである、という面での文学的な味わいという点にも着目してみると、多分3回ぐらいは映画館に足を運びたくなる・・・というのは大げさかも知れませんが、少なくとも1回では物足りなくなると思います。
かくいう私自身がですね、仕事終わって走って汗だくで映画館に行ってですね、上映時間ギリギリで間に合って、一期一会と思ってじっくり観たつもりでしたが、やっぱりもう1回観たいです。
あの場面、ペルシア語で何て言ってたか、細かい演出はどうだったのかなど、何度も巻き戻したりして確かめたいし、ついでにベルッチさんのボディも何回も拝見したいwので、DVDが出たらまた観よう、うん、と心に決めた次第。
(なぜかAmazon.co.jpのDVDカテゴリーで「サイの季節」を検索したら、アダルト商品が・・・)
で、ネット上には何か分かったようなことを書いている人が沢山いらっしゃいるようですがw、ズバリ言って私には分からないことが多かった。「亡命イラン人の監督が作ったシリアスな良い映画だ」という色眼鏡で見るのではなく、私のような素朴な一重まぶたの裸眼で観たら、もっと疑問が湧くはずですよ。なんでここでサイが出てくるの?とか、なんでカメが出てくるの?とか、なんで馬が窓から首突っ込んでくるの?とか、なんであそこで顔を隠してエッチなことしなきゃいけないの?とか・・・(ここだけ読んでると、どんな映画やねんww)
というわけで、調べたことをまとめてみました。もう映画を観た人にも、これから観る人にも、少しでも役に立てばいいかな、と思ってます。
※ネタバレはしないように心がけていますが、観る前に読まないほうが楽しめる方もいるかも知れませんので、その点が不安な方は観た後に読まれることをオススメします。
詩人「サヘル・ファルザンSahel Farzan」は実在の人物か?
映画の中では、ヴォスーギー扮する主人公は「サヘル・ファルザン(サーヘル・ファルザーン)」という名の詩人ですが、これは実在のクルド人の詩人「サーデグ・キャマーンギャルSadegh Kamangar」をモデルとしているらしい、ということはオフィシャルサイトにも書かれています。
しかし、以前からネット上で見られた英語のソースでは、サーデグ・キャマーンギャルはpseudonym(仮名、ペンネーム)であるとするものが多い。
で、実名にしろ仮名にしろ、映画の中にも出てくる詩集『サイの最後の詩Akherin She‘r-e Kargadan』(読み方によっては『最後の〈サイの詩〉』とも読める)という本は実在するのか・・・これが見つかれば、かなりのヒントになるはずなのですが、探しても探しても、見つからない・・・(ちなみに、当初の予定では映画のタイトルも『サイの最後の詩』だったようです。http://forum.hammihan.com/thread33454-2.html)
革命前の少部数の出版物なら、見つからなくても不思議ではありませんが 、サーデグ・キャマーンギャルについては、ホントに詳しいことは分かりません・・・そういう詩人がいたとしても、このストーリー自体がどこまで実話に基づくものなのかは、全く不明。
この映画は二人のクルド人に捧げられている。誰?
http://www.alarabiya.net/articles/2012/07/23/227992.html
映画の冒頭で、この映画はファルザード・キャマーンギャルとサーネ・ジャーレに捧げられているというメッセージが出てましたね。私、ちょっとそのときウロウロしていたのでウロ覚えなんですが。なんちゃってww
ファルザード・キャマーンギャル氏は、クルド人の教師・詩人で、PJAK(クルディスタン自由生活党)に所属して反体制運動に関わったなどの嫌疑をかけられ、(弁護人によれば一切の確たる証拠もなく)2010年5月、処刑されました。
キャマーンギャル氏を追悼するサイト。英語のコンテンツもあります。
- キャマーンギャル氏に関するウィキペディア英語版の記事:Farzad Kamangar - Wikipedia, the free encyclopedia
- 処刑を報じるBBCの記事(ペルシア語):BBC فارسی - ايران - چهار مرد و یک زن به اتهام'عضویت در گروههای ضد انقلاب' اعدام شدند
また、もうひとりのサーネ・ジャーレ氏は、2011年2月14日、テヘランでのデモの最中に射殺されたとされる芸術大学の学生で、彼もクルド人でした。
- サーネ・ジャーレ氏に関するウィキペディア英語版の記事:Sane Jaleh - Wikipedia, the free encyclopedia
- 殺害を報じるEKurd Dailyの記事:A Kurdish student Sane Jaleh killed in protests in Iran
ご存知の通り、ゴバーディー監督もクルド人です。映画がこの二人に捧げられていることから、私は当初、「サーデグ・キャマーンギャル」という詩人の名前はこの二人の名をもじって作られた仮名かと思ったのでした。そして映画の主人公の名前、「サーヘル・ファルザーン」も、どこかこの二人の名前に似ています。
しかし、実際に映画を観て、やはり、モデルになる詩人が存在したのだろうと思いました。上述の二人は革命以降に生まれた若者ですので、革命前に詩を書いて投獄されたという映画のストーリーとは合わないし、映画全編を通して朗読される詩は誰のものなのか?ということも疑問です。それに、サーデグ・キャマーンギャルが実在したなら、なぜ劇中では主人公の名前をサーヘル・ファルザーンという名前に変えたのか?これも謎です。これについては宿題ということで。
イランのクルド人?
さて、ここまで読むと、クルド人ってイランでどういう扱いされているの?と思われるかもしれません。あるいは、そもそもイラン人なのにクルド人ってどういうこと?という点も、説明が必要かも知れません。
イランは多民族国家です。イラン=ペルシア民族の国というのは、〈国民の歴史〉的にはそうなんですが、エスニシティの面ではクルド、ガシュガーイー、ロル、バフティヤーリー、アーゼリー(俗に言うトルコ人)、アラブ、などの様々な部族が存在し、言語的にはペルシア語が公用語ですが母語としてはトルコ語やアラビア語、クルド語その他の非ペルシア語を話すバイリンガルも多く、宗教の面でも、ゾロアスター教徒、キリスト教徒(アルメニア人、アッシリア人、カトリックなど)、ユダヤ教徒などが存在します。
で、クルド人がみんな迫害されていてイランの現政権に対して敵対的であるかというと、少なくとも表向きはそうではなく、多くのクルド人がイラン社会に溶け込んでいるし、「イラン人」というアイデンティティを持っています。私の個人的な印象では、不動産関係やマンションの管理、警備なんかにクルド人がとても多いのですが、要職についている人もいますし、一口にクルド人といってもスンナ派もいれば自称シーア派もおり、イラクから出稼ぎに来たペルシア語の下手くそな人(移民)もいれば、生まれも育ちもイランという生粋のイラン人のクルド人もいて、決して一様ではありません。
トルコやイラク、シリアのクルド人は別として、イランのクルド人にとっては、イラン人であることとクルド人であることは決して矛盾しません。その場合、イラン人=国籍(国家的枠組み)、クルド人は民族的属性になっている。日本国民であることと沖縄人やアイヌ人であることが両立できるのと同じです。
『サイの季節』では、主人公はクルド人でスンナ派ということになっていますが、シーア派のイスラーム革命が起こったことによって、妻と離婚させられ、売れっ子の詩人から、政治犯へと転落します。
逆に、むっつりスケベの運転手、アクバル・レザーイーは、革命後、革命防衛隊の中で地位を得て、権力を振るう側に転身します。アクバルとかレザーイーとか、いかにも革命的(シーア派的)な名前のこの人が、一貫して下劣な変態ハゲおやじとして描かれていることに注目。ここに、革命政府の全体主義と、それによって社会基盤を失った王党派や世俗主義者との間のコントラストがくっきりと描かれています。
ゴバーディー監督の作品は、こんな風に、善と悪のコントラストをストレートに表現したものが多いように思います。実際に戦争や迫害を経験した人の取り得る態度として、それはありだと思いますし、私のような無知な外国人がとやかく言えるものではありませんが、そういう態度の延長戦上にあるのは、どこまでいっても対立であり、相手(=悪)を否定し、消し去ることですね。個人的にはそこがちょっと苦手なところかな。
なんでサイやカメが出てくるのか?
ゴバーディー監督の映画と言えば、『カメも空を飛ぶ』、『酔っ払った馬の時間』、『ペルシャ猫を誰も知らない』、そして『サイの季節』と、ことごとく動物がタイトルに含まれています。これについて尋ねたインタビュアーに対して、監督は、動物が好きなんだ、一部のメディアよりも動物と過ごすほうがよっぽど良い、と答えています。*1
サイについては、私は映画を観る前は、ファシズムを諷刺したと言われるウジェーヌ・イヨネスコの劇作品『犀』からとったのかな?と思いました。しかし、この映画に関しては、サーデグ・キャマーンギャルの詩を映像化するという目的があったため、詩の中に出てくるサイや亀を映像化する必然性があったのでしょう。カメについては、ホントはカエルだったとか。
実際に詩人の残した詩の中に、馬やサイが出てきます。詩人が刑務所に入っていたとき、飛び込んできたカエルと過ごしていたという話があったのですが、カエルが降ってくる作品は既にあるので、私が亀に変更しました。
確かに、予告編でカメが降ってくる場面を観たときは、映画『マグノリア』を連想しました。あの映画も面白かったのでお勧めです。(何を隠そう私はジュリアン・ムーアのファンなのだ)
サーデグ・キャマーンギャルの詩を味わおう
そうなってくると、あの詩、どんなだったっけ?と思いますよね。私はこの映画は詩を映画化したものだ、と思っていましたので、一生懸命聞き取ろうとしましたが、暗い映画館でメモを取るわけにもいかずwwどんどん忘れていきそうです。
ネット上にはペルシア語の詩をアップしたサイトがいくつかあります。一部を訳出してみます(私の訳ですので、映画の訳文とは異なります)。
大地は大きな岩塩の塊
一頭のサイが首を曲げ
舐める
空っぽの口で噛む
噛む
そのとき宮殿の残骸(tofale)を地面に吐き出す(tof mikonad)のだ
そこに
もう少し遠くに
あなたの皮膚は硬くなる、サイの季節の中で
色々と解釈の余地のある詩だと思いますが、私には今のところピンとこないです・・・
あと、刺青にもなっていた、「境界に生きる者だけが、新しい祖国を作る事ができる」という一文ですが、以下のような詩の一部になっています。
息が、樟脳の水晶をつくる
二つの脈の間で、石が石で火花を散らす
空気は短剣だ
水は短剣だ
境界に生きる者だけが、国を作るだろう
樟脳と訳したところは、kāfūr、要するにカンフルです。
境界に生きるというと、エドワード・サイードみたいですが、自分の国を持たないクルド民族のことが想起されます。あるいは、革命後にイランを離れた在外イラン人か。
この「境界(の中)に生きるdar marz miziyad」という部分は、普通の用法では、境界に生きる(=辺縁に生きる)、という意味と、境界の内側に生きるという意味の両方の可能性があります。国を作るのは、国の中にいる人たちなのか、周辺に追いやられた人たちなのか・・・解釈が分かれるところです。
(おまけ)ベルッチさんのボディって、天然?
どうも、以前より肥大した感があるのですが・・・ネット上では、どうもそのような説が多いですね。
だって、あの歳ですよ。普通なら、キム・ベイシンガーさんみたいに・・・たとえば、画像を探すとだな、あ、カミさんが帰ってきた(マジでw)。
帰りにラーメン屋に寄りたいときは?
どうでもいいけど、新宿シネマートに行ったら、ラーメンは近くの希望軒のブラックラーメンが個人的にはオススメです。一蘭はすげえ行列だしね。
京都のラーメン(新福菜館とか第一旭とか)に似てるなあ、と思いましたが、神戸もこういう感じらしい。東京でこの味はなかなか食べられないです、はい。