バフマン・タヴァッコリー『私のいないここで』(2010年製作)
Here Without Me | فیلم کامل اینجا بدون من | Watch Full Length Iranian ...
この映画は、テネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』の翻案物語です。
というわけで、字幕はありませんがペルシア語がわからない方でもなんとなく理解できるのではないでしょうか。
脚の不自由な内気な娘(ヤルダー)と、倉庫で働く映画好きの息子(エフサーン)、そんな子どもたちの将来を不安に思うあまりおせっかいが過ぎる母親、というところは『ガラスの動物園』とほぼ同じ設定です。
(以下、ネタバレ注意)
冒頭、息子がバスに乗って、自分がどこにいるのか分からない、と言っている場面があり、そこから追憶の物語(息子はこれを「書いている」と言っている)が始まります。
ヤルダーはエフサーンの職場の友人であるレザーが一度家に遊びに来て以来、好意を抱いており、世話を焼いた母の言いつけで、エフサーンはレザーを家に招待します。ここで原作同様、停電はありますが、蝋燭を使って家族で楽しく食事をして過ごします。
その翌日の訪問で、レザーはヤルダーと打ち解けたあまり、自分の妹のように感じて、婚約者がいることを話します。ショックを受けたヤルダーはそれから心を病んでいきます、真面目な青年レザーと娘の結婚を期待していた母も失意のどん底に陥り、期待に膨らんでいた生活は一変して絶望的な色に染まってしまいます。エフサーンは、ドアを締め切ってガス栓を開けてしまえばいいと母に言います。
そして、家を出て、行くあてもなく長距離バスに乗るエフサーン。
ここで、原作(『ガラスの動物園』)の流れからすると、彼は家には戻らないのですが、本作ではそこからストーリーがさらに展開し、一見するとハッピーエンドのように見えます。
しかし、バスに乗るエフサーンが、どこからどこまでが現実なのか分からないと言っているように、その後の話は夢や空想なのかもしれません。上記のYoutubeの動画についたペルシア語のコメントで、実際には一家はガス自殺したのであって、それがイランの貧困家庭の現実なのだと訴えている方がいますが、そういう見方もできなくもない。
しかし、ところどころ何回か見直したのですが、その解釈に確証は得られませんでした。映画館でたたずむ彼のセリフは、映画を2回続けてみる人の気持ちは皆に説明できるものではないが、そこに映像が映し出されることで、主人公と会話することができ、運命を変えることができる、ただ重要なのは、力の限り続けることができることだ、そうすれば正しいことが始まる、というよく分からん内容ですが、その後にハッピーエンド的場面が流れることからしても、これは破滅的なエンディングに対するアンチテーゼなのではいか、と思います。
足の不自由な外に出られない女性、先の見えない低所得労働に甘んじる若者、父親の不在。そんな社会でも、自殺しないで希望を捨てるな、という意味だろうと、私は理解しました。こう書くと陳腐なメッセージに聞こえますが、現代イラン社会の問題を考えると、切実なメッセージだと思います。また『別離』や『サントゥール奏者』同様、海外に逃げるな、逃げたあと残された人たちはどうなるんだ、という意味も込められているのではないでしょうか。タイトルのInja bedune manは、私のいないこの場所で、という意味ですが、これはイランのことでしょう。
主演はファーテメ・モオタメド=アーリヤー(母)、ネガール・ジャヴァーヘリヤーン(娘ヤルダー)、サーベル・アバル(息子エフサーン)、パールサー・ピールーズファル(友人レザー)。家の中でもヘジャーブをつけている点には当然違和感がありますが(本作に限らず全部そう)、演技や演出はかなり洗練されており、全体として美しい物語になっています。時間があったら観てください。
(2015/4/3修正)