来るべきアレフバー の世界

ペルシア文学の余白=世界文学の中心

必要から礼拝へ、そして情欲へ〜ポップソングに隠されたパラレルワールドへの扉(2)

前回の続き)

前回、『貞淑な妻』という映画をどうして知ることになったか、ちょっと遠回りしてシャフリヤールのNiazという歌の話題から入ったわけですが。

 

さて、Niazの歌詞をネットで検索していると、 niaz(必要)の部分が、ナマーズ namaz となっているものがチラホラみつかります。ナマーズというのは礼拝のことですが、一体どういうことでしょうか。

 

フォルーギーもシャハリヤールも、確かに「Man niazam, ~」と唄っている。なのに歌詞には「Man namazam, 〜」とあるのです。おかしくね?

・・・ググればすぐ分かる話なので、勿体つけてもしょうがないのですが、この歌詞はもともとシャハヤール(シャハリヤールではない)・ガンバリーというマルチタレントな音楽家(現在はLA在住)の作詞したもので、問題の歌詞の部分は、もともとnamazだったのが、シャーの時代の検閲によって、niazに変えられたとのことです。

で、元の歌詞を直訳すると、「僕の礼拝は、毎日あなたを見ること。」この場合も二重主語構文であることに変わりはないのですが、意味はずっとアブナいです。ふつう、礼拝とは神に祈ること。それが、「お前を毎日見ればそれが礼拝だぜオケ-」・・・だと!?

まあ、礼拝と訳さずに「お祈り」と訳すと、君を毎日見ることを祈る、という意味の可能性もありますが・・・それなら検閲する必要ないですね。自分にとっては、恋人に毎日会って愛を確かめることが、敬虔な人にとっての日課である礼拝と同じ重みがある、ということでしょう。

以下は、ガンバリー自身がシャンソン風に歌っている動画です。こちらははっきりnamazと歌っていますね。

 

「僕のお祈りは、君を毎日見ること

 君の口から、「あなたが好きよ」と聞くこと」

参考までに歌詞の原文を引用します。

 

تن تو، ظهر تابسون‌و به یادم میآره

رنگ چشم‌های تو بارون‌و به یادم میآره

وقتی نیستی زندگی فرقی با زندون نداره

قهر تو تلخی‌ی زندون‌و به یادم میآره

 

من نمازم تو رو هر روز دیدنه

از لبت دوستت دارم شنیدنه

 

تو بزرگی مث اون لحظه که بارون می‌زنه

تو همون خونی که هر لحظه تو رگ‌های منه

تو مث خواب گل سرخی، لطیفی مث خواب

من همونم که اگه بی تو باشه، جون می‌کنه

 

من نمازم تو رو هر روز دیدنه

از لبت دوستت دارم شنیدنه

 

تو مث وسوسه‌ی شکار یک شاپرکی

تو مث شوق رها کردن یک بادباکی

تو همیشه مث یک قصه، پر از حادثه‌یی

تو مث شادی خواب کردن یک عروسکی

 

من نمازم تو رو هر روز دیدنه

از لبت دوستت دارم شنیدنه

 

تو قشنگی مث شکل‌هایی که ابرا می‌سازن

گل‌های اطلسی از دیدن تو رنگ می‌بازن

اگه مردای تو قصه بدونن که این‌جایی

برای بردن تو با اسب بالدار می‌تازن

من نمازم تو رو هر روز دیدنه

از لبت دوستت دارم شنیدنه 

 

さて、やっと本題に入る訳ですが、こんなことを調べていたとき、この歌は『処女の妻Zan-e bakere』(ザカリヤー・ハーシェミー脚本・監督、1973年)というすごいタイトルの映画のために書かれた歌だということを知ったわけです。

この映画、しばらく前までは、いくら探しても動画を見つけることができず、せいぜいポスター画像しか見られませんでした。そこからは、さぞすごいポルノ映画だと思われたのですが・・・Youtubeで観たら、普通の映画でした(笑)。

 


‫زن باکره (1352)‬ - YouTube

 

内容は、伝統的な集合住宅である中庭式住宅で、妻と友人の密通の疑念に捕らわれた男が、最終的に住人たちを道連れに無理心中を図るというもので、濡れ場が1回だけありますが、いたって普通。邦画だったら、女性の胸を映さない場合でも、動きだけはそれらしく、ねっとりという感じですが、こちらは一瞬ニップルが映り込んでしまっているといういい加減さに加え、抱き合ってゴロゴロ転がっているだけ(レスリングの練習?)。

それはさておき、西洋化が進んだ革命前のイラン社会において、性の解放と家族の問題をどうしたらいいのかといった社会的な動揺が透けて見えるような映画ですね。

70年代のイラン映画をみていると、今は存在しないもう一つのイランにトリップしたようで、なかなか面白いです。

(了)

 

 

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