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来るべきアレフバーの世界

ペルシア文学・イラン文化研究と図書館の話

ポスコロ批評にありがちなハッタリについて

リテラシーとレトリック

私は、いわゆるポスコロ(ポストコロニアル)批評には一定の期待を寄せてしまうタイプの人間だったりするわけですが、どうもその期待に応えてくれるものは少ない、というか、なんかドスの効いたスローガンを唱えるだけで自己満足としか思えないものや、それ以前に文献の使い方がアレレだったりすることがあって、ガックリくることもしばしば。 

エドワード・サイード以降の伝統なのかも知れませんが、欧米のアジア系マイノリティ・移民の著者によるポスコロものにガックリくることが多いです。かつて植民地主義の下で抑圧されていたアジア人の中から、欧米流の「知性」を身につけた知識人が現れ、支配者側の言語を使って、その論理の虚を突く、といった体裁が受けるのでしょうか。知識階級ほど、「サバルタン」の声に耳を傾けなくてはいけない、という道徳的強迫観念があるのか、単に知的にマゾなのかは、分かりませんが。

 

最近読んだものでは、パンカジ・ミシュラ『アジア再興:帝国主義に挑んだ志士たち』(白水社、2014年)がいかにもそういう本でした。

私は普段は気に入った本だけを紹介し、気に入らない本はいちいち紹介しませんが、さすがに今回、多少なりともイランに関係する内容を持つポスコロ本でガックリきたのは、ダバシ『イラン、背反する民の歴史』、プラシャド『褐色の世界史』に続いて、これで3冊目なので、さすがに「ええ加減にせい」ということで、ここらで何か言っておこうと思います。

英語文献だけで世界を語ってしまう

この『アジア再興』という本は、第2章「アフガーニーの風変わりなオデュッセイア」で、イスラーム原理主義の源流に位置するイラン系思想家、ジャマールッディン・アフガーニーことアサダーバーディー(1838あるいは1839年生まれ、1897年没)について、かなりのページを割いています。それで、「おっ」と思って手に取ったのですが、アフガーニーやシャリーアティーの言葉を引用してるので、どんな資料を使っているかと思って注を見ると、英語の2次文献しか使ってません。そういうのは学術書とは呼べません。じゃあ一般書(=読み物)としてなら許されるのかというと、別に一般書なら信憑性や説得力がなくても良いという基準があるはずもなく。読み手がとやかく言わないから存在を許されているだけで、ダメさ加減では同じでしょう。

 

一外国語読みとして是非言っておきたいことですが、英語文献しか使わないでどうしてアジアを見渡すような記述ができると思うのでしょう。ヴィジャイ・プラシャド『褐色の世界史』も99パーセント英語文献しか使わないでイランの思想家ジャラール・アーレ・アフマドについて書いていましたが、第三世界の(抵抗と敗北の)歴史というテーマなら、ハリール・マレキーとか、ほかにも参照すべきものが多くあるはずです。英語だけでやろうとすると、自ずと資料が限定されてしまいます。英語文献だけ読んで世界史が書けると思うなら、それこそ帝国主義的発想と言わざるを得ません。

 

しかも英語文献ですら、非常に限られたものしか使っていません。アフガーニーに関する記述に関して言えば、殆どがNikki R. KeddieのSayyid Jamal adDdin "al-Afghani": A Political BiographyAmazon.comで中身が見られる)とElie Kedouri, Afghani and 'Abduh: An Essay on Religious Unbelief and Political Activism in Modern Islam(これもGoogle Books で中身が見られる)に依拠したものです。他の文献もネットで見られるものが多く、手っ取り早く手に入るものだけに依拠したのかな、とも思いました。

 文献の扱いがいい加減

典拠の示し方にも問題があります。例えば本書p.99で、著者はアフガーニーの言葉をKeddieの著作から孫引きしています。著者の注では、Keddieから引用したページをp.64と記述していますが、実際は、pp.63-64の部分にまたがって引用しています。また、その引用の後の「文明国」という言葉について解説している部分も、Keddieの説明を下敷きにしているにもかかわらず、そういう(自分の言葉で言い換えている)部分については典拠を明記していません。また、本書p.120で引用しているErnest Vauquelinの発言も、上述のKedourie本のpp.29-30の引用部分の孫引きですが、p.29としか記載していない。

こんなページ数云々みたいなことは些末な事柄だと思われるかも知れませんが、他にも肝心なところで典拠を全く示していないことがあり、そういう部分を上記のKeddie本やKedourie本などと対照してみれば、引用部分だけでなく地の文の説明も、これらの文献に大きく依拠したものであることが分かります。自分では何の検証も行わず、複数の二次資料を体良く組み合わせて編集した本といってよいでしょう。

 

また、無駄に話が逸れることも多く、アフガーニーと関係があるのかないのかわからないようなエピソードが延々続いたりします。簡単に手に入る資料だけを使って、足りない部分を埋め合わせるために、調べたことを全部詰め込んだという印象を受けます。

論旨もよくわからない

そういう問題もさることながら、文学研究者としては、このようにして作り上げたアフガーニーや康有為タゴールについての記述を、最終的に何に役立てようとしているのか、要するに、何が言いたいのか、というところが気になるわけですが、はっきりした結論らしいものもない。

 

要するに、この本の主眼は、論述というよりは、〈西洋帝国主義に挑んだアジアの志士たちの物語〉を提示することにあるらしく、その先に何か建設的な展望が語られるわけでもない。私としては、そういうのは「アジア人はこんなにやられてきた」とアジってるようにしか見えない。さもなければ戦いに散っていく姿を敢えて見せるヒロイズム丸出しの自撮りポーズとでもいいますか。どっちにしても説得力はないです。その点は、ダバシ『背反する民の歴史』にも共通していると思います。

森を見て木を見ない乱暴なアジア観

イラン研究者として一番言いたいことは、本書がそのような〈西洋vsアジア〉という大パノラマ図を描くために、あれもある、これもある、と色んな事例をひっぱってくることで、アジア各国の内的なコンフリクトや差異というものに殆ど頓着しない点はいかがなものかということ。

 

著者は西洋への対抗というたった一つの共通項を手がかりに、驚くほどの連想力で、アフガーニー、ムハンマド・アブドゥフ、イクバール、サイイド・クトゥブ、果てはビン・ラーディンやザルカーウィー、ホメイニーやシャリーアティーやハータミーやアフマディーネジャード、アブドルキャリーム・ソルーシュといった人たちの名を挙げ連ねていく。さらに東アジアやインドの知識人たちと並べ立てていく。一見するとすごい博学なんだな、と思いますよね。(それがこの本のウリらしい)

 

アラブ民族主義を考えるときにも言えることですが、国際的な図式では〈植民地主義西洋vs抑圧されたアラブ〉という構図があるとしても、ドメスティックな問題としては専制的な政権と民衆や世俗的知識人の間の対立、さらにエスニシティイデオロギーや宗教・宗派やジェンダーといったコンフリクトが、まさに断層帯のように複雑に絡み合っており、そこで虐殺や殺し合いが起こっている訳です。それを差し置いてイスラームとかアジアとかいう、これ以上ないくらいの大きな括りで語られても、結束しようがないんじゃないすか。ニューヨークあたりのカフェで議論しているアジア系学生が溜飲を下げるだけじゃないかと思いますよ。

 

もちろん、こういう本が読み物として楽しく読まれることを否定するつもりはありませんし、読んではいけないなどというつもりもありません。でも学生は論文には使えないよ、という話でした。(別に怒ってません)

 

関連リンク 

アジア再興 帝国主義に挑んだ志士たち

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From the Ruins of Empire: The Revolt Against the West and the Remaking of Asia

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英語原書。Kindle版もあり。 

 著者インタビュー

business.nikkeibp.co.jp

 

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